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0590 第590話 さいごの約束 「第十章 和の月(なのつき)」

ずっと病室に泊まりこんでいて、十日以上、大洗に帰っていない。いささか疲れを感じ
始めていた。夜、看護師が何度も出入りするし、夫がトイレに立つたびに起きなくてはい
けない。椅子に座ったまま寝るほうがラクなくらいだった。でも、このままでは身体がも
たない。
「ねえ、直ちゃん、今夜はお母さん、思いきって横になって寝ちゃうから、二時くらいま
で代わりに起きていてくれる? 勉強しながらだと眠くなっちゃうから、マンガ読んでて
いいよ」
と直彦に言って、ふとんをかぶって眠ることにした。二時間ほど眠ったころだろうか、
夫の大きな声で目を覚ました。ベッドから起き上がって、何かをしたいようだった。
「お母さんは?」
「お母さんは今日は帰ったよ」
部屋が暗いので私が床に寝ているのに気がつかないのだろう。直彦は少しでも長く私を
休ませようとしてくれているのだ。
「そんなはずはない! どこにいるんだ、呼んでこい!」
直彦は、私は朝早くに帰ってくるから、今日は自分が泊まると言った。
「何言っているんだ、いいからお母さんを呼んでこい。お母さんはいるはずだ」
私はふとんの中でじっとしていた。でも、夫の声はどんどん大きくなり、本気で直彦を
怒鳴り続けていた。
「直ちゃん、もういいよ。ごめんね。あなた、どうしたの?」
私は身体を起こした。夫は直彦に向かって、
「ほら、いるじゃないか、バカ! 何ウソついているんだ。役に立たない小僧だ!」
あの和彦さんが直彦を罵倒している。こんなふうに叱られたことのない直彦は泣いてい
た。
直彦にはかわいそうなことをした。今の夫には私でなくてはダメなんだ。こんなに私を
必要としてくれるのなら、もう二度とそばを離れるのはやめよう。もう疲れたなんて絶対
に言わない。
夫はフレッシュ・ジュースとゼリーを少し口にして、また横になった。何も言わなくて
も、私には夫がどうしてほしいのか、すぐにわかるようになっていた。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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