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0589 第589話 さいごの約束 「第十章 和の月(なのつき)」

会社から電話があった。
「チャヤ マクロビオティックの岩本さんが電話してほしいとおっしゃってました」
本当に連絡があった。ちゃんと検討してくれたのだ。ドキドキしながら、すぐに電話を
してみた。
「先日はありがとうございました。料理長に話したら、試作品を作ってくれたんです。こ
れが、すごく美味しいんですよ」
「本当ですか? 何を作ってくださったんですか?」
「酒粕のドーナツです。それで、料理長が坂本さんにお目にかかって、作ったものを食べ
てみてもらいたいと申しておりますので、一度来ていただくことはできますか?」
「はい、もちろんです。勝手ですが、できたら一日でも早いほうがいいんです」
二日後の午後四時に行くことになった。
「食べてみてください」
と、優しそうな料理長がお皿を差し出した。ドーナツが二つ並んでいる。一口食べてみ
ると、甘くなくて、ほのかな酒粕の香りとともに、もっちりとした歯ごたえがある。本当
に美味しい、私の大好きなタイプのドーナツだった。かじりながら、下を向いてしまった。
涙がこぼれそうで。
「ごめんなさい。本当に美味しくて……。私一人でこれ以上食べるのはもったいないので、
子どもたちに持って帰ってもいいですか?」
と聞くと、他にも持ち帰り用に用意してくれているという。そして、もう一種類の試作
品も見せてくれた。それは味噌漬けにした豆腐のような、酒の肴にはぴったりの料理だっ
た。元気なころの夫がいかにも好きそうな……。また、涙が出そうになる。きっと、料理
長も店長も、私のことを変な人だと思ったことだろう。とにかく、その試作品をありがた
くいただいて、夫の回診時間に間に合うよう、大急ぎで病院に戻った。
廊下で看護師に呼びとめられた。
「坂本さん、今、ご主人が真っ暗な中で椅子に腰かけていらしたので、ベッドに横になる
ようおすすめしました。でも、少し座っているとおっしゃるので、そのままなんです」
「えっ、長男がいるはずですけれど」
「はい、でも寝ていらっいゃるみたいなんです。ずっと毎日朝五時に起きて学校に通って
いらっしゃるから、疲れているんだと思います。だから、起こさなかったんです。叱らな
いであげてくださいね」
直彦は前回の入院のときから、私と一緒に夜も付き添ってくれることが多くなっていた。
私が家に帰らなければならないときや、仕事で出なければならないときに代わってくれる
のだ。しかし、学校まで三時間近くかかってしまう。毎朝暗いうちに病院を出て、東京駅
から高速バスに乗って登校し、病院に帰ってくるのは夜八時すぎだった。ラグビーで鍛え
た体力があるからこそ、できることだったのかもしれないが、きっといつも眠いのだろう。
私が部屋に戻っても気づかず、眠っている姿を見て、また涙がこみあげてきた。
夫と話していると、元気に貴彦と有沙が入ってきた。このころ二人は、二日学校に行く
と、三日目は休んで病院に来ることにしていた。ずっと休ませてしまいたいと思ったが、
夫は子どもが学校を休んで見舞いにくることを、とてもいやがった。
「有沙、すっごく美味しいドーナツをいただいてきたよ。少し食べてごらん。うちの酒粕
が入っているドーナツなんだよ」
「うそー、どれどれ。ほんとだぁ、美味しい。パパもひと口食べてごらんよ」
ベッドに横たわった夫の口に、ドーナツをひとかけら入れた。
最近はゼリーやカルピスなど、水分を補給する程度のものしか口にしなかった和彦さん
が「美味しいな」と言って、口をもぐもぐさせた。有沙が口にいれたからかもしれない。
たにしろ、とんでもない親バカで、「うちの有沙は大きくなったら、夏目雅子みたいな美
人になると思うんだ」なんて平気で言うほどだったから。
とにかく「チャヤ マクロビオティック」が作ってくれた試作品は、私たちにとって思
いがけない素晴らしい贈り物だった。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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