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0587 第587話 さいごの約束 「第十章 和の月(なのつき)」

知人がお見舞いにきてくれた。
「春を持ってきたわよ」
素晴らしい桜のアレンジメントだった。まだつぼみだけど、この花が満開になるのを見
ることはできるのだろうか。
そんな私の不安とは裏腹に、夫は「仕事をしろ」と言う。何をすればいいのだろう。お
正月直後からのドタバタで忘れてしまっていた、搾ったばかりの有機の酒のことを思い出
した。お酒はできているのに、ビンやラベルのデザイン、それどころかまだ名前さえ決め
ていなかったことに気がついた。
とりあえず友人のデザイナーに依頼することにした。ラベルに使う紙はオーガニックの
酒らしいものにしたい。この酒を造るのに使った有機の稲のもみ殻を漉き込んで和紙を作
ることができるという。それもいいかもしれない。でも、かんじんの名前はどうしよう。
ただ「有機純米酒」というだけじゃつまらない。何かいい名前はないかしら? 考えに考
えたあげく、和彦さんのために作ったお酒なのだから「和彦」は? とも思ったが、さす
がに重すぎる。「月の井」と「和彦」を合わせてみたらどうだろう。お見舞いに来てくれ
た人全員に聞いてみた。
「月の和」
「和の月(なごみのつき)」
「和の月(わのつき)」
この三つの中から決めることにした。さて、誰にラベルを書いてもらおう。やはり、和
彦さんしかいない。和彦さんが書けるのなら、絶対にそれがいい。
「ねえ、あなた、お酒のラベルを書いてくれる?」
「いいけど、うまく書けないぞ」
「いいの。あなたの字がいいんだもん」
すぐに高校のある鹿島からこっちへ向っている直彦にメールした。
<東京駅の大丸デパートで筆ペン買ってきて。筆圧が弱くても書きやすいのを選んでね>
直彦は少ないおこずかいをはたいて、いちばん高い筆ペンを買ってきた。何度か書いて
もらおうとチャンスを狙ったが、体調の悪化で夫が起きていられる時間は少なく、なかな
かえまくいかない。
椅子に座って筆ペンを手にするのだが、半紙の表面が柔らかくざらついているせいか、
かすれてしまってうまく書けない。ニ、三枚書いてみたけれど、やはりかすれてしまう。
夫が嫌な顔をした。とりあえず、今日はやめよう。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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