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0584 第584話 さいごの約束 「第十章 和の月(なのつき)」

もう医師にしてもらえることがないなら、夫の最期は自宅で看取りたいと思った。その
ことを若林先生に相談すると、
「私もそれが一番よいと思います。でも、かなりの勇気が必要だし、覚えることもたくさ
んありますよ。できますか?」
「はい、やってみます。絶対に頑張ります」
先生は早速、療養支援室のナースを呼んでくれた。
在宅用の酸素ポンプの使い方、点滴のライン交換、消毒の仕方など覚えることは山ほど
あった。どれもこれも初めてのことだし、夫の命を預かる責任の重さに押しつぶされそう
だった。
心細いと思いながらも在宅療養に必要なことを覚え、いよいよ退院する日がきた。点滴
用の輸液や消毒薬など必要な道具一式は病院から自宅に直接送ってくれるシステムになっ
ている。
「やっぱり家はいいな」
夫は帰宅したとたんに、そう言った。リビングの真ん中に電動ベッドをどんと置いて、
いつでも家族が一緒に過ごせるようにした。ここなら、どこにいてもパパの顔が見える。
緊張しつつ、残念ながらベスト8で負けて花園から戻ってきた直彦と一緒に、説明書と首
っぴきになって、なんとか点滴をつないだ。
いくら説明を受けたり、にわか練習をしても、やはり人の命を預かることは怖かった。
そう思っていたところに、以前私がお産したときお世話になった看護師さんが仕事をやめ
たばかりで、すぐ近所に住んでいることがわかり、次の仕事に入るまでのあいだ、全面的
に協力してくれることになった。点滴を入れるときや、利尿剤を注射するときなど、電話
をすればすぐに来てもらえるのはありがたかった。こうしたプロの助けがなければ不安で
たまらず、在宅療養は精神的にキツかったと思う。近所に住む医師、下村先生がときどき
往診してくれ、処置が大変なときは水戸日赤に運ぶということになっていたので、なんと
か続けることができたのだ。
一月二十日、往診の際に下村先生から「血中の酸素濃度が下がっているので、ふとした
瞬間に心停止してしまう危険もあります」と言われた。さらに腹水もかなり溜まっており、
身体を動かすのもつらそうだ。これを抜くには入院しないと無理のようだ。なんとか最期
は自宅で、私の腕の中で看取りたいと、必死の覚悟で退院したのに、また慶応に戻るのだ
ろうか? ここまで頑張ったのだから、あとは病院に任せるべきなのだろうか? 自分で
は決めかねて、姉に電話した。
「家で何もできずに見ているのもつらいし、腹水を抜いたほうがラクになるのなら、入院
したほうがいいような気がする。でも最後の入院になってしまうのなら、このまま家にい
るべきかもしれないし」
夫の姉とも何度も何度も相談した。でも、私たちには答えが出せなかった。
「あなた、家で死にたいですか? 病院で死にたいですか?」
和彦さんにしか、その選択はできない。でも、そんなことを訊けるはずがなかった。結
局、違う言い方で訊いてみた。
「腹水を抜くために入院する? もう少し家で頑張ってもいいし、あなたはどうしたい?」
「慶応に行って抜いてもらうかな。そうしたら、また、がんの治療ができるかもしれない
し」
夫はまだあきらめていない。若林先生に電話することにした。
「「いつでも帰ってきてください。でも、今回は退院できない覚悟で来てください」
その「いつでも帰ってきてください」という先生の言葉にふっと肩の力が抜け、素直に
「帰ろう」という気持ちになった。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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