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0583 第583話 さいごの約束 「第十章 和の月(なのつき)」

一月五日、内臓の機能が低下しており、脱水症状に近い症状になったので、慶応病院に
入院することにした。検査の結果、やはり肝転移が増大多発していた。二度目の肝動注は
効かなかったということになる。
入院中のある夜、夫の姉と弟が見舞いにきてくれた。私と三人だけになったとき、
「一番したくない話だけど、もし、今回元気に退院できなかったら、最後はどこに和彦を
連れて帰るか考えなくてはいけないと思う」
という話になった。
「お義母さんは?」
と訊ねると、
「最初はやっぱり和彦は家長で跡取りだから母屋でと言っていたけれど、今は敬子さんた
ちの家でもどちらでもいいと言ってるわよ」
「考えてみますね。難しくて……。少し時間をください」
もう、そんな時期がきてしまったのだろうか。絶対に考えたくないことだった。

もう何も打つ手はないのかもしれないと思いつつ、あきらめの悪い私はまた平岩先生の
もとを訪れた。今の夫の状況を話すと平岩先生はこう言われた。
「肝不全になっては、もうやれることはありません。患者も来ていないのだし、これ以上
あなたと話すのは時間の無駄です」
たくさんの患者さんが平岩先生のアドバイスを求めて待っている。もう夫のために費や
してもらう時間はないのだと思った。
実は、群馬への旅行から戻ったとき、夫と一緒に平岩先生を訪ねたのだった。なんとか
平岩先生に診ていただきたいと思い、二人でお願いした。そのとき、
「私があなたに治療をするかわりに、あなたたちは私に何をしてくれるのですか?」
と問いかけられた。
主人が食道がん治療のための署名運動をするとか、私が治療についての手記を書くと答
えればよかったのかもしれないが、私たちは逡巡してしまった。
末期がんの患者が医師のために何ができるのか。あまりに意外な問いかけだった。きっ
と平岩先生に診てもらいたいという患者が多すぎるので、先生はこういう方法をとってい
るのだろう。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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