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0580 第580話 さいごの約束 「第九章 クリスマスの新酒」

入院してCTを撮る。結果を聞くまでは生きた心地がしなかった。しかし、結果は意外
なことに、小脳のがんが三分の一に縮小しているという。今回のめまいは脳転移の悪化で
はなかった! よかった。 本当によかった。こんなに早く悪くなるのでは、何のために
″鉄仮面″をかぶってSRSをやったのかわからなくなってしまうもの。
十二月二十二日の朝、蔵に行くと、今日はこれから有機の酒を搾るという。
「じゃあ、搾りたてを社長のところに持っていきたいから、少しビンに詰めて」
と言ったら、蔵人はすぐには無理だから、あとで用意しておくと言った。
新酒は、まず社長にき酒をしてもらうのが慣わしなのに、なぜすぐに用意してくれな
いのだろう。酒蔵の習慣として、搾ったばかりの「荒ばしり」と呼ばれる新酒は、最初に
杜氏が、次に蔵元が酒の味をくことになっている。夫のところに持っていけないとして
も、せっかくだから搾るところに立ち会いたいと思った。
有機の酒は「袋搾り」をすることに決まっていた。通常は「ヤブタ式」という巨大なア
コーディオンのように何枚ものパネルの入った機械に酒のもとである「醪」を流し込んで
搾る。しかし、一番グレードの高い酒である大吟醸は、醪を袋に入れて竹の棒に吊るし、
ぽたぽたとしたたり落ちるしずくを集めるように搾るのだ。今回も同じようにするのかと
思っていたら、少しやりかたが違っていた。
まず槽(ふね)と呼ばれる大きな箱の中に、醪を詰めた酒袋をひとつずつていねいに積み
重ねていく。 ふくらんだ酒袋はしみ出てくる原酒で乳白色につやつやと光り、美しい。
驚くのは、蔵人たちの動きの素早さで、一瞬の休みもなく、リズミカルに次々に袋を積ん
でいた。声をかけたら叱られそうな緊張感の中で、ただ眺めていたら、
「奥さん、そこにいるんだったら、写真を撮ってもらえますか?」
と頼まれた。そうだ、有機の認定には、その生産工程のひとつひとつを記録に残してい
く必要があったのだ。いそいで事務所に戻り、デジタルカメラを取ってきて撮影する。
そのカメラを病室に持っていき、搾りの様子を夫に見せることができた。
「今日、初搾りを持ってこようと思ったのに、まだ無理ですって言われちゃった」
「それは、そうだよ。袋搾りは時間がかかるんだ。機械で一気に圧力をかけるんじゃなく
て、酒袋の上に重いドブタ(木の蓋)を載せて、少しずつ圧力をかけるからな」
そのままでは均等に搾れないので、次の日には袋を平らではなく、真ん中に寄せて凸型
に積みなおし、またドブタを載せる。夫の話では三日はかかるだろうという。
はたして三日後の十二月二十四日、クリスマス・イブの日に蔵に行くと、蔵人から声を
かけられた。
「奥さん、有機の酒、社長のところに持っていくの用意してありますよ」
ちゃんと覚えていてくれたのだ。300ミリリットル用のうすい青のビンに入れてくれ
た新酒を受け取った。一度仏壇にお供えしてから病院に持っていこうと母屋に入ったら、
すでに仏壇と神棚にはき猪口(ちょこ)に入れられた新酒がお供えしてあった。長年の習
慣であたりまえになっているのだろうけれど、蔵に伝わるこうした決まりごとを心地よい
と思った。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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