![]()
0579 第579話 さいごの約束 「第九章 クリスマスの新酒」

納豆をめぐって夫とそんな会話を交わしたころ、長男の直彦が「お母さん、明日四時半
に起こしてよ」と言った。なぜ、そんなに早く? と訊くと、
「学校に行く前に蔵を手伝うんだ。今日、親方に訊いたら、いいよって言ってくれたから」
闘病中の父親の代わりに蔵に入ることが自分の務めだと思っているようだ。小学生のこ
ろから遊び場のようにして蔵に出入りし、昨年も何日か造りを手伝っていたけれど、こん
なに真剣な目をした直彦は初めてだった。前から訊いてみたかったことを口にしてみた。
「直ちゃんは、将来どうするの? もし、パパがいなくなったら」
「そんなの、子どものころから造り酒屋になることしか考えていないよ。いつからかは覚
えていないけれど、気がついたら、ずっとそう思っていたもの」
と直彦は即座に答えた。
そういえば、この子が生まれたとき、まだ元気だった夫の父は「跡取りができた」と大
喜びしたっけ。夫もまた、生まれたときから造り酒屋の跡取りとして育てられ、疑うこと
なく、今の仕事についたのだ。
でも、私はどうすればいいのだろう? もし、夫がいなくなってしまったら。
子どもたちが学校に行っていないとき、さりげなく夫に訊いてみた。
「ねえ、あなたがいなくなったら、私、どうすればいいんだろう」
「好きにすればいいよ。このまま月の井をやってくれてもいいし、それが大変なら実家に
帰ってもいいし、本当におまえの好きにすればいいよ」
という夫の答えに、「うーん、どうするか今はわからないなぁ」と私は言った。
「直彦が一人前になるまで、私が商売やるから大丈夫!」
と言いきれない自分が情けなかった。息子のほうは、とっくに覚悟ができているという
のに。直彦が大学を出て一人前になるまで、あと十年。私に頑張ることができるのだろう
か。

朝、起きるとき、夫がめまいを感じたという。珍しく不安そうにしている。
「最近、ちゃんとごはんを食べていないから栄養不足なんだと思うよ。鉄欠乏性貧血って
いうのもあるらしいし」
そう言いながらも私は心配でたまらなかった。すると、夫が叫んだ。
「有沙、おなべ!」
台所にいた有沙がいそいでおなべを持っていくと、いきなり吐いた。
すぐ慶応病院に電話する。若林先生がつかまった。
「脳転移が悪化した可能性大ですね。とりあえずこちらに来てください。ベッドの空きを
調べておきますので、出られるときに連絡をください」
と言ってくださった。この日は貴彦と有沙がお世話になった保育園の先生のお祝いの会
がシーサイドホテルであって、出席する予定だった。落ち着かない気持ちで受付をすませ
たとき、このホテルのオーナーのおかみさんから声をかけられた。事情を打ち明けると、
「すぐ帰りなさい。先生には説明しておくから」と言ってくれたので、いそぎ家に戻って
東京に向かった。
シーサイドホテルのオーナー夫妻は、私たち夫婦の仲人をしてくださった方たちで、夫
の病気のことも早い段階で打ちあけて、いろいろと相談にのってもらっていた。何よりう
れしかったのは、毎晩疲れきって病院から大洗に帰り、夜遅く翌朝の朝食用の食べ物をス
ーパーに買いにいかなければというようなときに、「明日の朝食べてちょうだい」と五人
前のサンドイッチを差し入れてくれたりしたことだった。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
![]()