0578  第578話  さいごの約束 「第九章 クリスマスの新酒」

 

 小康状態が続いていたが、食欲は落ちていた。
「納豆ごはんなら食べられそうだけど、今は酒の仕込みの最中だから食えないしなぁ」
「蔵に行かなければいいんだもの、食べられると思ったものは何でも食べればいいのに」
 と言ったら、夫はすごい勢いで怒った。
「そんなことは絶対にダメだぞ。いつ用事ができて蔵に入るかわからないんだから。大事
な仕込みのときに納豆菌なんかが入ったらどうするんだ。おまえがそんなに甘い認識でど
うするんだ!」
 なぜ、納豆菌が厳禁かというと、酒造りの命である麹の中に納豆菌が混入すると「ぬる
り菌」となり、パラパラであるべきが固まってしまうからだ。

 ここで、酒の仕込みについてごく簡単に説明しておこう。まず、精米した米を洗い、甑
で蒸す。蒸した米は放冷機で粗熱を取ったあとに、米、、掛米
(かけまい)という三つ
の役割に分けられる。最も重要なのが造りで、室という三十度前後に温度が保たれた
部屋で、布の上に蒸し米を広げ、菌を全体にふる。米全体をひっくり返しては菌をふ
る作業を何回か繰り返すのだが、室は暑いので、蔵人たちは上半身裸でこの作業をする。
を米に均等に混ぜ終えると、真ん中に寄せて、山のような形に積み上げる。これを小さ
(こうじぶた)に移して、発酵をすすめるのだが、が出来あがるまでには約二日かか
る。出来あがったは、竹を組んで作った枯らし場で乾燥させる。

 次に重要なのが造りである。は酒のもと、酒母
(しゅぼ)とも呼ばれる。五度前後に
保たれた仕込み室で、は水、、蒸し米に酵母を加えて造られる。酵母にはいろいろな
種類があり、日本醸造教会から配布されるのだが、この酵母の種類が酒の味を決める大き
な役割を果たす。有機の酒の酵母には遺伝子組み換え株ではないという品質規格証明書が
必要で、親方が種
(たねこうじ)の問屋から取り寄せた。酵母の働きで発酵が進み、二週間
ほどで酒母が出来あがる。

 さて、この酒母をもとにして、水、、掛米(蒸し米)を三段階に分けて仕込んだもの
を「醪」という。 いわゆる酒の仕込みタンクに入っているのは「醪」で、これを毎日、
朝と夕方の二回、長い棒を入れて攪拌しながら(櫂
(かい)入れ)、約二十〜三十日かけて
発酵させる。醪の発酵がすすむと、タンクの底から大きな泡が湧き出し、まさに酒が生き
ているということが実感できる。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)