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0577 第577話 さいごの約束 「第九章 クリスマスの新酒」

有沙が突然、言った。
「私、転校してもいいよ。慶応病院の近くの学校に行ってもいいよ」
毎日少しずつ横になっている時間が長くなり、だるそうにしているパパを見て、入院す
ればよくなる、そのためには病院の近くに自分たちが住めば……と思ったのだろうか。病
気が治るわけではないけれど、少しでも自宅に長くいてふだんと同じ生活をする、いわば
QOL(クオリティ・オブ・ライフ:生活の質)について子どもに説明するのは難しかった。
いよいよ今年の酒造りが始まるのを祝って、「洗いつけ」の行事を行なうことになった。
酒造りはまず洗米から始まるので、実際に米を洗う前後のみんなの都合のいい日に宴会を
するのが、月の井の恒例だった。
夫はかつらをかぶって参加し、みんなに挨拶をした。挨拶のあとの拍手が途切れると、
事務を担当している女の子が、私に花束を差し出した。
「えっ、どうして?」
と言ったら、
「専務ご就任、おめでとうございます」
いきなり涙があふれた。究極の選択で、しぶしぶ引き受けた専務という立場だけれど、
こうやって花束で祝ってくれるなんて。社員たちの気持ちがうれしかった。私にできるこ
とは、必ずやらなければと心に誓った。
乾杯が終わると、いつのまにか夫の姿が見えなくなっていた。宴会は、身体がしんどい
のだろう。以前は必ず、得意の持ち歌「お嫁サンバ」を歌ったものだったけれど。
そんな状態だというのに、毎日のように届く仕事関係の忘年会や新年会の出欠の案内に
片っ端から「出席」に○をつけ、せっせと手帳に予定を書き込んでいた。

寒くなってくると、昨年と同じように、抵抗力の落ちている夫が風邪をひいてしまうの
ではないかという恐怖にさいなまれた。
日常のささいなことでも神経質になってしまい、人のたくさんいる場所から帰ってきた
ら、うがい、手洗いを必ず家族全員がすると決め、外食するときでもうがいをさせた。百
円ショップで買った紙コップを常にバッグに入れておき、どこに行っても「うがい、手洗
い」を連呼していたので、家族にいやがられた。
そんなある日曜日の朝、ソファに寝転んでテレビを見ていた夫の横に貴彦がもぐりこみ、
抱っこしてもらっていた。でも、どうも貴彦の顔が赤い。様子が変だ。熱を計ってみたら
三十八度二分。私は仰天して、思わず、
「やだ、貴彦、こっち来ないで。子ども部屋に行きなさい!」
と言った瞬間、はっとした。今までだったら、子どもから風邪がうつるなんてことは気
にしないで、病気のときは特に大切にしていたのに……。 心の中で貴彦に「ごめんなさ
い」とあやまった。でも、今はどうしてもパパを風邪ウイルスから守らなくては。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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