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0576 第576話 さいごの約束 「第九章 クリスマスの新酒」

いつもの日常が戻ったような気がして、久しぶりに直彦のラグビーの試合を見にいった。
パパの看病でずっと休部していたのだが、花園ラグビー場でおこなわれる全国高校ラグビ
ー大会への出場を決める県大会の決勝なので、直彦も主務として試合に参加した。
グラウンドに到着したときはもう後半だったが、ハラハラする試合運びで負けていた。
試合終了直前に、味方が逆転トライを決め、大歓声と共に22対19で見事逆転優勝とな
った。みんなでうれし泣きをしていると、直彦の友人のお母さんの一人から、
「坂本さん、奇跡は起こるんだよ! あきらめちゃダメだよ。子どもたちが教えてくれた
じゃない!」
と励まされ、胸がいっぱいになった。
ラグビー部の監督にお会いした。休部したお詫びをしつつ、直彦が花園に行きたいと言
っていることを伝えた。直彦としては、とても言いだしにくくて悩んでいたのだが、来年
もまた必ず行くと思っているから、今年も一緒に行って見ておかないと主務の先輩が花園
ではどういう動きをするのかわからなくなってしまう。休んでいたのに図々しいが、どう
しても今年の花園には行きたいというのだ。
「いや、来てくれれば助かりますよ。わかりました、面倒みますよ」
心あたたまるひとことだった。直彦も久しぶりで顔を出しにくいと言っていたのだが、
部員のみんなにあたたかく迎えられていた。

またCT検査をした。SRSのあとに使用している抗がん剤、イレッサは効いているの
だろうか?
結果を聞く日の朝、洗顔していると、小さなクモがいた。朝のクモは助けたほうがよい
のかもしれないと思って、そっと逃がした。
若林先生の前に座ると、
「肺、腎臓は前回と同じ大きさです。でも肝臓の半分はがんになっています。イレッサは
中止して、もう一度肝動注をやってみましょう」
この状態でも「なすすべはありません」と言わない若林先生に救われた。
病院からの帰り道、『権八』でおそばを食べていこうか?」と聞くと、「いや、いい。
『パークハイアット』にでも行ってみるか」と夫が答えた。新宿にある高級ホテル「パー
クハイアット東京」は、一度行ってみたい憧れのホテルだった。でも、夫には興味がある
はずもなく「権八」でもどこでもおそばの美味しいお店に行ったほうがいいのに。なぜ、
突然「パークハイアット」なのだろう。
「うれしい、行きたい! でも、あなたの好きなものはないかもしれないよ」
「いいんだよ。おまえが好きなものを頼めよ。俺は飲みものだけでもいいし」
だったら、他の店に行けばいいのに。たしかに髪が抜けてしまってから、馴染みの店に
行くことはしなくなっていた。以前は、絶対にうちのお酒を置いてくれている得意先にし
か行かなかったのに。
「おまえの好きなものがあれば、それでいいんだよ」
そういえば、検査結果が悪かった日、落ち込んでいるときは、いつも私が憧れている、
でもふだんなら夫が行くとは思えない店に行こうと言ってくれた。きっと、私に対する気
遣いなのだ。本当に本当にうれしかった。この際だから「パークハイアット」で、大好物
のパンとケーキも買ってもらった。
「おまえみたいなのは、図々しくて嫌われるぞ」
と言われながら、夫に甘えられる幸せを感じていた。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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