0575  第575話  さいごの約束 「第九章 クリスマスの新酒」

 

「酒は使う酵母や水の水質によって味が違ってくるけれど、今回は親方がそのへんを全部
やってくれるから。おまえは、いくらで売る酒にしたいのか考えておけよ」
「えーっ、そのなのわからないよ。デパートに行って同じようなお酒の値段を見てくれば
いいの?」
「何、言ってる。違うよ、原価計算をするんだ」
 原価計算と言われても、「何、それ」というかんじだった。経理関係のことはまったく
知らなかったのだから。
「酒造りにかかるすべての経費、米代、人件費、光熱費、すべてを考慮に入れて、算出す
るんだよ」
 と夫は言うが、そんなことが私にできるはずがない。
「じゃあ、計算のしかたを教えてよ」
「山田か小沼にでも聞け!」
 なんだろう、どうしてこんなに意地悪なんだろう。仕事をやらせるにしても、もっと親
切に教えてくれてもいいではないか。私は思わず大きな声を出してしまった。
「どうしてそんなこと言うの!?」
 久しぶりのケンカだった。社員のいる前で夫に叱られた恥ずかしさもあって、ぷりぷり
怒りながら帰宅した。

 ちょうどそこに癌研で知り合った黒沢さんからメールが入った。
「退院なさって、ご主人の具合はいかがですか? お若いし、社長さんですから無理をな
さっているのでは。あなたも小さいお子さんをかかえて、仕事もしながらの看病で大変だ
と思いますが、頑張ってくださいね。私はいつも主人に対してもっとこうしてあげるべき
だったと、後悔ばかりの毎日です」
 一緒にがんと闘いましょうと励ましあっていたのに、ご主人がなくなって半年が過ぎて
いた。その奥さまからのメールは心にしみた。ケンカはやめよう。もう残り少ない時間か
もしれないのに、後悔はしたくない。

 もう一度会社に戻った。社員もいて、恥ずかしいので、夫にメモを渡した。
「さっきはごめんね。ちゃんとやるからね」
 メモをちらっと見た夫は、知らんふりで電話をかけ続けていた。今すぐ仲直りしたかっ
たから、もう一枚メモを書いた。
「お昼ごはん、用意しておくね。どれかに○をつけて
 Aラーメン Bチャーハン C焼きそば」
 すると夫はAに○をつけてくれた。すぐに会社を出てスーパーに寄り、ごはんの支度を
して夫の帰りを待った。原価計算は結局、その後夫の病状が悪化したため、代わりに社員
にやってもらったのだった。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)