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0573 第573話 さいごの約束 「第八章 坂道を下るように」

夕方四時から照射の予定だった。一昨日から若林先生は学会で留守にしていて、ちょっ
と心細い気がしたけれど、今日は肝臓の治療ではないのだから……。
「すべてをお任せして、頑張ろうね」
そう言って夫を放射線室に送り出した。移動中、四角い鉄仮面をかぶって車椅子に乗っ
た夫の不気味な姿を通りがかりの人たちがジロジロと見た。
「お母さんのストールをパパにかけてあげればよかったのに」
あとから有沙に言われ、そうしてあげればよかったと後悔した。
放射線室のドアが閉まり、「使用中」の赤いランプがついた。私と子どもたちは放射線
室の前の廊下で待つことにした。すると、足音が聞こえ、若林先生が現れた。
「福岡から、一本早いのに乗れたので」
すぐに放射線室に入っていった。夫は若林先生の声を聞いて、どんなに安心しただろう。
照射時間は一時間半。その間、何度も先生たちが出たり入ったりしていた。
「無事、終了しました。成功ですよ。よかったですね。私もよくわからないところがあっ
たのですが、勉強になりました」
と若林先生。家族全員、直立不動で深く頭を下げ、お礼を言った。
「最初、お父さんの顔を見たとき、お子さんたちもびっくりなさったでしょう。かわいそ
うでしたね。でも、頑張っているパパの姿を見ておくのは絶対によいことですよ」
病室まで一緒に戻ってきてくれた先生は、ベッドに横たわった夫に「大丈夫ですか?」
と声をかけて、足早に去っていかれた。
「敬子、若林先生が来てくれて、本当にほっとしたよ。冷たい台の上にのったら、その台
が天井ちかくまで上がって、下が見えなかったんだ。でも、若林先生の声がして、『坂本
さん、大丈夫ですか? 私が付き添いますから』って言ってくれたんだ。本当にうれしか
った。生きた心地がしなかったから」
「そうだね。私だって安心したよ。主治医って、こういうことなんだね」
「本当だな。俺、この先どうなるかわからないけれど、若林先生を信じて慶応で治療して
いくよ。もし寿命が来てしまっても、それはそれでいいと思うよ。信頼できる先生に出会
えて幸せだよな」
そう言うと、おでこをグルグルと鉢巻きみたいに包帯で巻いた和彦さんは眠りに落ちた。
その翌日、退院することになり、自分で車を運転して青山のラーメン屋「だるまや」に
立ち寄る。ワンタンめん、チャーハン、ギョーザをぺろりと平らげた。それを見て私も少
し安心した。昨日の治療にはびっくりさせられたけれど、これだけ食べられれば大丈夫。
次の木曜日の外来で聞いたところ、SRSの経過は順調だった。帰りに久しぶりに癌研に
寄り、陳先生にお会いした。脳転移について報告すると、
「かわいそうでしたね、脳に転移した場合、どんなふうになるかはエビデンスがなくてわ
からないんです。食道からの脳転移は百人に一人くらいしかないんですよ。ほとんどの人
がその前にダメになってしまうから」
ドキッとする話だったが、百人に一人の生存率のところまで頑張ったのだと喜ぶことに
した。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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