0572  第572話  さいごの約束 「第八章 坂道を下るように」

 

 全脳照射の後、身体じゅうにまわったがんをどう退治していけばいいのか。とりあえず
脳の腫瘍については手を打てたが、他の部分はどうなるのだろう。何もしなかったら余命
はどのくらいなのだろう。夫は若林先生にストレートに訊いた。
「二ヵ月くらいかなぁ」
 先生の答えもまたストレートだった。
 帰りの車の中で夫は、
「若林先生って厳しいことをサラッと言うよな。あと二ヵ月かぁ」
「そうだね。でも、私は余命って言葉はいつも変だと思うんだ。何もしないでそのままだ
ったら、余命という日にちは当たるかもしれないけれど、ひとつずつ治療が効いていった
ら、どんどん余命は延びるじゃない」
 私は最初に「余命」と言われたときから、ずっと考えてきたことを話した。医師が説明
してくれるときに、何もしなかったらあと○ヵ月ですよ、でも、治療すれば、どんなに長
くなるかわかりませんよ、とひとこと付け加えてくれればよいのに。そう言ってくれない
と、聞かされた人には数字だけが頭の中に残ってしまうのだ。

 SRS照射の前日、放射線科の先生から説明があった。
「複雑な型なので、ニ、三回に分けてではなく、一回照射にします。照射がずれないよう、
頭に四角い鉄の枠をボルトで留めてやります」
 くわしく聞けば聞くほど、恐ろしくなった。頭蓋骨に鉄のボルトを打ちつけるのだ。大
丈夫なのだろうか? 何かがあっては困るから、明日は子どもたちも学校を早退させて連
れてこようと思った。

 いよいよ検査の日。貴彦と有沙を連れて慶応病院に到着すると、学校のある鹿島から高
速バスで来た直彦に会った。病棟の廊下を歩いていると呼びとめる人がいる。夫の親友の
一人だった。みんな一緒に病室に入ることになった。
 ドアを開けて最初に入った私と有沙の目に飛び込んできたのは、まるでイエス・キリス
トのように頭の前後に鉄のクギを打ち込み、四角い鉄枠をかぶった夫の姿だった。とっさ
に私たちは手をつないでその場でUターンし、病室を出た。部屋に背を向けたまま涙が止
まらなかった。
 そこにいた全員、言葉もなかった。夫の友人がなんとか、
「よう!元気そうだな」
と声をかけてくれた。
「元気どころか見てくれよ、この姿。朝七時にボルトで鉄枠を固定してから、横になるこ
ともできず、ずっと座っているんだよ」
と夫。
「起きているなら、ちょうどいいや。うちのやつからメロンと寿司を持たされたから、食
えよ」
「少し食うかな」と、頭に鉄をかぶった夫が言う。
「うまいなぁ。静岡の高級メロンだな。手術前だから、寿司は半分にしておこう。奥さん
は、おまえにはもったいない、気の利いた嫁さんだよ。お礼言っておいてくれよ」
 いったん凍りついた空気は、二人の冗談まじりの会話で、少しづつ和らいだ。
 奥さんの気遣いは本当にありがたかった。メロンを丸ごといただいても病室の小さな洗
面所では切り分けにくかったのだが、彼女はきれいに種を取りクシ型にカットして、ひと
つずつパックに入れてくれていた。美味しいちらし寿司は、子どもたちの分まで用意して
あった。学校からお腹を空かせてきた子どもたちは大喜びだった。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)