0570  第570話  さいごの約束 「第八章 坂道を下るように」

 

 十月三十一日、やっと退院。日を追うごとにめまいと吐き気はなくなった。ただ、そ
れと同時に夫の髪の毛もなくなった。どんなときでも退院の翌朝から会社に出勤してい
た夫だが、今回はどうするのだろう。まにあわせで作ったかつらはあるけれど、サイズ
が合わないので、かぶった姿はなんとも変なかんじだ。

 病院から家に帰る途中、遅めの昼ごはんを食べることになった。
「敬子、たしか浅草を通ったとき、むぎとろの店があったよな」
「うん、私は入りたいって言ったけど、あなたがどじょうがいいと言うからそうしたで
しょう。心のこりだったんだ。行こうよ」
 浅草寺のあたりから浅草橋までぐるぐる走って、やっとお店を発見した。 しかし、
外までびっしり人が並んで待っている。でも、せっかく夫が「食べたい」というものが
あるのだから、なんとしても入りたかった。 電話帳で調べてみると、近くにもう一軒
むぎとろのお店がある。大通りに面した店の支店で、こちらは落ち着いた雰囲気のいい
店だった。
「俺はむぎとろ定食」
「私は……悩んじゃうな。決められないよ」
「大丈夫だよ、また連れてきてやるから。とりあえず頼めよ。二つ頼んでもいいし」
 夫はぺろっと一人前平らげて、私の残したぶんまで食べた。食道がんが再発したもの
の、まだ普通に食事ができることに幸せを感じた。

 十一月一日。退院の翌日、月初めの朝会がある。夫はやはりいつもと同じように朝七
時半に会社に行った。かすれた声に似合わないかつらで、みんなにどんな話をしたのだ
ろう。一時間後には帰宅してソファで横になった。

 週末、子どもたちと一緒に夫の帽子を買いに出かけた。デパートには高級なものしか
なかったけれど、安売り衣料品の「ライトオン」にはリーズナブルでおしゃれな帽子が
たくさんあった。帽子をいくつも持つて試着室に入る。次から次へとかぶってみて、直
彦と兼用できるデザインの茶色の帽子を買った。いつもキリンビールの景品でもらった
ジャンパーばかり着ているから、この際新しいものをと言ったら、本気で怒りだした。
「前にも言ったろ、俺の服は買うな!」

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)