0569  第569話  さいごの約束 「第八章 坂道を下るように」

 

 放射線治療の回数が増えていくにつれ、夫の病状は安定してきた。もう、この吐き気
の苦しみから二度と逃れられないのではないかと思っていたが、治療の効果は確実にあ
ったと思う。脳転移への対処に追われているうちに、肝臓の転移の勢いを止めるため、
再び凍結手術をする予約を入れた日が近づいていた。
 いつもの検温の時間。病室に入ってきた看護師さんが、私のそばを通るとき、そっと
メモを渡した。
「奥様だけにお話があります。カンファレンス室に、すぐにいらしてください」
 と書かれていた。私はなにげなく席を立ち、カンファレンス室に向かった。ドアを開
けると、若林先生がいた。
「今の段階で凍結手術をすることは意味がないと思うので、放射線診断部の先生と相談
して中止することに決めました」
 やっぱり。いつも先にゴールに達してしまいそうな病巣から治療していけば、なんと
か少しずつ余命は延びると思っていたけれど、もう肝臓ではなく、脳転移が命とりにな
るということなのだろう。だから凍結手術は意味がない。もう無意味に和彦さんの身体
を傷つけてはいけないのだ。先生方の決断は当然のことだと思う。しかし……。
「先生、中止ではなく、延期にしてください」
 若林先生は、また私がわけのわからないことを言いだしたと思ったようだった。
「違うんです。主人は凍結手術を受けることで余命が少し延びるのだと、ずっとオペの
日を待っていました。なので、脳転移で死ぬ確立のほうが高いから肝臓はいじらないと
思わせたくないんです。とりあえず、今は体力が落ちているから延期する、ということ
にしてもらえませんか」
 先生はわかってくれた。
「わかりました。では、今から坂本さんのお部屋で説明していいですか?」
「はい、お願いします」
 私はわざと、若林先生より少し遅れて部屋に入った。先生が帰ると、夫が言った。
「延期だって。まあ、こんな状態だからしようがないよな。 早く全脳照射が終われば
いいのにな」
「ほんとだね」
 私は窓を開けながら、外を向いて返事をした。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)