0567  第567話  さいごの約束 「第八章 坂道を下るように」

 

 さまざまな検査をした結果、まず頭全体に放射線をかけることになった。全脳照射三十
グレイ(照射量の単位)。ガンマナイフは局所治療で、正常な組織への照射を極力抑え、
ピンポイントで放射線(ガンマ線)を腫瘍のみに集中させる方法だが、夫の場合には一ヵ
所だけではないので、一度広く放射線を当てて頭全体のがんを抑えることになったのだ。
 入院して点滴を受けているというのに、また吐き気がおそってきた。吐き気止めが効い
ているうちはいいが、やはり一日のうち何度かは気持ちの悪くなるときがある。そんな状
態なのに、今度は帝国ホテルでおこなわれる、知り合いの茨城の造り酒屋さんの結婚式に
出席すると夫が言いだした。お祝い事を直前にキャンセルすることになると申し訳ないの
で、なんとか説得しようとしたが、まったく聞き入れてくれない。帰宅して「スーツを持
ってこい」と命令する始末。夫婦で招待されているので、最悪でも私一人が出席すること
にすればいいと思い、とりあえず家に帰ることにした。

 でも、この状態の夫を病室に残して帰るのは心配でならない。一度閉めてから、またド
アを開け、「やっぱり帰るのやめようかな」。
「いいから早く帰れよ。遅くならないうちに帰れ」
「じゃあ本当に帰るよ。でも、明日早く来るからね。待っててね、じゃあね」
 何度も手を振った。誰かが見ていたら、どう思っただろう。でも、それくらい別れがた
かったのだ。
 翌朝早くに夫から電話があった。
「敬子、靴も持ってきてくれ。ネクタイはやっぱり白だよな」
 本当に出席する気なんだ! 呆然とした。もし披露宴の最中に具合が悪くなったらどう
するのだろう。でも、これ以上口論する気にもなれず、必要なものはすべて持っていくこ
とにした。私自身の用意や食べ物などで大荷物になってしまったこともあり、手伝いもか
ねて下の二人の子どもたちを連れていくことにする。パパがあんなふうに入院してから五
日間がたっていた。

 病室に入ると、夫は静かに横たわっていた。子どもたちはぐったりと横になっているパ
パの様子を見て、ショックを受けたようだった。
「どうして、こんなに悪いの? 入院したから元気になったと思ったのに……」
 泣きそうになっている有沙を見て、きちんと話すときがきた、と感じた。
 夫を病室に残し、私は有沙と貴彦を連れて廊下に出た。もう隠すのはやめよう。もし、
今回の全脳照射が効かなかった場合、パパと一緒にいられるのは、本当にあとわずかだか
ら。
「有沙、ごめんね。お母さん、いつもいつもちゃんと言おうと思っていたんだけど、パパ
は『有沙はまだ小さいからかわいそうだよ』って言うから、話せなかったの。パパはね、
今やっている治療が効かなかったら、あと一ヵ月しか生きられないんだって。今の治療は
頭全体に放射線を当てるから髪の毛がなくなっちゃうかもしれないけど、驚かないでね。
パパ、頑張っているから、きっとよくなるよ」
 ゆっくりと言い聞かせた。有沙の目にみるみる涙があふれた。
「あーちゃん、わかってたよ。お母さんはよその家の人のことだって言ってたけど、電話
で話しているとき、何度も『がん』って言ってたもん。お母さんは絶対にウソついてると
思ってたもん。変だったもん」
 待合室のすみで、三人で声を出さずに泣いた。貴彦が、
「有沙、俺だって教えてもらったの後からだったんだぞ。しようがないよ」
 とお兄ちゃんらしく言う。
「タカと有沙がこんなにしっかりしているなら、もっと早く言えばよかったね」
 悲しかったが、子どもたちみんなに話したことで、少しは心が軽くなった。(つづく)

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)