0566  第566話  さいごの約束 「第八章 坂道を下るように」

 

 翌朝、義姉が持っていってくれたCTを見た若林先生から連絡があった。
「こちらの脳外科の医師にも見てもらったのですが、この状態なら移動できると
思います。こちらに来てください。治療しましょう」
 治療ができる。その言葉はたまらなくうれしかった。下村先生に脳圧を下げる
薬を点滴してもらってから車に乗った。でも、渋滞に巻きこまれたらどうしよう。
三時間はかかってしまう。
 ステロイドが効いているせいか、一見元気そうな夫は、車の中で冗談まで飛ば
していた。いつも混んでいるはずの首都高速が、今日にかぎってガラガラに空い
ている。スペクタクル映画「十戒」の海が割れるシーンを思い出すほどだった。

 車は道路の上を滑るように走り、大洗の自宅の玄関を出てから一時間十五分で
慶応病院の駐車場に入った。
「敬子、高速を降りて慶応の建物が見えたとき、ほっとしたよ。やっぱり怖かっ
たな」
「うん、うん、そうだね」
 うなずきながら、私も涙が止まらなかった。 呼吸停止するかもしれない恐怖
なんて、私だったら絶対に味わいたくないもの。
 看護師が車椅子を用意してくれたのに、夫は歩いて病室まで行った。あくまで
もいつもと同じように。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)