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0565 第565話 さいごの約束 「第八章 坂道を下るように」

「もしもし」
いつもの若林先生のよく通る声が聞こえた。
「私は今直接ご主人を診ているわけではないので正確なことは言えませんが、下村先生か
ら様子を聞くかぎり、こちらに来られるような気がします」
「先生、でも……」
「下村先生がおっしゃることもよくわかります。でも、私の担当した患者さんで、ご主人
と同じような状態からガンマナイフがうまくいき、一年生きた方がいらっしゃるんです。
私としては、できればこちらに来てほしい。勇気の必要な決断ですが、奥さん、来られま
すか?」
夫が心から信頼している先生が「こちらに来てほしい」というのだったら、私は何があ
っても連れていかなくては、と思った。
「わかりました。必ず行きます」
「では、明日の朝のうちに今日水戸で撮ったCTを持ってきてください。それをこちらで
見て、来ていただくかどうかの最終判断をしましょう。大丈夫ですか?」
「はい、絶対に持っていきます」
とは言ったものの、私は夫のそばを離れられない。水戸に住む夫の姉に頼むことにした。
強引で混乱した私の頼みを義姉は快く引き受けてくれた。下村先生は、明日慶応に行く直
前にまたステロイドを点滴して、できるだけ脳圧を下げてくれると言ってくれた。
先生が帰られたあと、夫はすっきりとした顔で起きてきた。
「ああ、あの苦しみは何だったんだろう。腹が減ったよ。なにか美味いものないか?」
おかゆでも作ろうか、と言うと、
「おかゆかぁ、病人みたいでいやだな。兄さんにもらった天野屋のせんべいがあったな。
あれでいいや」
夫はソファに座ってお茶を飲みながら、大好物のおせんべいを食べている。
まるでキツネにつままれたようだった。今、目の前にいる夫が「エンドステージ一ヵ
月」には到底見えない。とりあえず細かい病状を話すのはやめて嘘をつこうとした。し
かし、以前、夫がすごい剣幕で怒ったのを思い出した。
「俺にはやらなくちゃいけないことがあるんだから、正直に言ってくれないと困る」
結局、脳転移があること、危険な場所にあることを話した。前頭葉に十センチもの水が
溜まっていることも全部話した。そのうえで慶応病院に行くかどうかは、夫に決めてもら
うのが一番だと思った。
「俺は、可能性があるなら慶応に行きたいよ」
私の選択は正しかった。でも、移動中に呼吸が停止してしまう可能性があることも伝え
なければ。
「恐ろしいな。でも、このままだまって死ぬより、治療ができることを信じるよ」
そうだね、きっとガンマナイフが効いてよくなるよ、と励まして、その夜はベッドに入
った。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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