0564  第564話  さいごの約束 「第八章 坂道を下るように」

 

 CTの画像を見た下村先生は、下を向いて、頭を抱えた。
「奥さん、前頭葉に十センチの水が溜まっているし、延髄のすぐそばに腫瘍があります。
 この状態だとエンドステージ一ヵ月……もう動かすのは無理です。
 いくら栄養剤を点滴しても治るはずがなかったのだ。それにしても、いきなり余命一ヵ
月と言われて、腰が抜けそうになった。だが、苦しんでいる今の状態から夫を救わなけれ
ばならない。眠れないほど苦しむのを見るのはつらすぎた。
 先生はすぐ往診にきてくれるという。
「とりあえずステロイド剤のプレドニンを点滴で入れれば、なんとか症状が抑えられるか
もしれません」
 点滴を開始すると、絶え間なく苦しがっていた夫が魔法をかけたように平静さを取り戻
した。静かに、深い深い眠りに入っていった。

「先生、どうすればいいのでしょう?」
「めまいと吐き気の原因は、やはり脳転移でしょう。今、点滴で脳圧を下げているので症
状が抑えられていますが、いつまで効くかわかりません」
 がんの治療の可能性を問うと、延髄のすぐ近くにあるから難しいという。ピンポイント
で腫瘍に放射線を当てるガンマナイフならなんとかなるんもしれないが、MRIを撮って
みないことには何とも言えないらしい。とにかく慶応病院に行って詳しい検査を受けたか
った。しかし、先生は、とても東京まで行ける状態ではないという。
「でも、先生、せっかく今まで慶応でなんとか治療してきたのに、ここで何もせずにあき
らめてしまうのはかわいそうすぎます」
「お気持ちはわかりますが、今、東京へ行くのは危険です。余命の一ヵ月を家族と一緒に
大切に過ごしたほうがいいと思います」

 ついこの前、「あと十年頑張って、直彦が一人前になるまで生きたい!」と言っていた
のに、余命一ヵ月とはむごすぎる。
「がんと闘うことが、ずっと主人の希望だったのです。私はやはり慶応に連れていってあ
げたいんです。もう治療法がないと思われるなかで、何度も希望のある治療をしていただ
いて、主人は若林先生をとても信頼しているのですから」
 ついに先生は根負けして、
「慶応で受け入れてくれるかどうか聞いてみますか?」
 と言ってくれた。すぐに慶応病院に電話した。若林先生は下村先生から病状を詳しく聞
いていたが、二人の意見はくい違っている様子だった。
「若林先生が奥さんに電話を代わってほしいそうです」
 受話器を渡されたが、外来でも緊張するのに、電話でなんかうまく話せるのだろうか。
足がふるえそうになった。 (つづく)

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)