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0560 第560話 さいごの約束 「第七章 生きたあかしを」
じきにTS−1の服用が始まった。今のところ副作用はない。一日も早く薬の効いてく
れることを祈るばかりだ。
風邪をひかずに順調に治療がすすむよう、私としては夫を温室に入れてしまいたいほど
だった。それなのに、夫はとんでもないことを言いだした。
「以前から知り合いに群馬の『こだわりの店』オーナーを何人か紹介してもらう予定にな
っている。もう、段取りをしてもらっているから、中止も変更もできない。泊まりがけで
行く」
こんなに大変な状態の病人が中止も変更もできない仕事なんて、あるのだろうか?
結局、中止も変更もできなかった。しかも、私についてこいと言う。一人で行かせるの
も心配なので、子どもたちを実家に預け、一緒に行くことにした。
高速に乗ると、思ったより群馬は近かった。
「こだわりの店」オーナーとは、納豆屋さん、スーパーなどの、それぞれ個性的な店主さ
んだった。いずれも有機食品にとても力を入れている会社だ。商売って、こんな方法で成
功する場合もあるんだ……こだわりって大切かも。いやいやついてきたものの、すっかり
感心してしまい、これが夫が私を連れてきた目的だったのかもしれなかった。
その夜は伊香保に泊まった。子どもたちがいなくて、二人だけで温泉に泊まるのは初め
て。ふとんを並べて寝ながら、
「なんだか新婚時代に戻ったみたいだね」
と言ってみた。
「そうだよなぁ。早いよな。俺、やりたいことがいろいろあったけど……直彦が一人前に
なったときに『月の井を継ぎたい』と思うような魅力のある会社にしておきたかったんだ。
まだ間に合うかな」
「じゅうぶん間に合うよ。医学は日進月歩だもの。ほそぼそとでも治療を続けているうち
に、どんどん新しい薬が出てくるから大丈夫。人の余命なんて誰にもわからないもの」
「あいつが大学卒業するまであと六年はかかるから、やっぱり十年は生きなくちゃな。有
沙の花嫁姿もみたいしな」
そんな会話を交わしながら、眠りについた。あと十年、なんとか和彦さんを生かすため
にはどうしたらいいのだろうか。私はまだあきらめてはいけない、と心に誓った。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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