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0558 第558話 さいごの約束 「第七章 生きたあかしを」

もう夫には本当に時間がないかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられず、最
後の夏になるのなら、毎年恒例の三家族そろっての旅行に行きたいと考えた。夫がみんな
で今年も行きたいな、と言っていたのだ。二日後の土日にしないと、もう行けないまま終
わってしまうような気がする。友人に伊豆の宿を取ってもらって、みんなのスケジュール
を無理やり空けてもらった。
ところが、学校から帰宅した長男の直彦に話すと、
「そんな急に言われたって、いやだよ。部活休めないもの」
と言う。
「何言ってるの。パパの病状からいうと、これが最後の家族旅行になっちゃうかもしれな
いんだよ」
「最後、最後って言うけど、去年だって最後の家族旅行になるかもしれないって言ったじ
ゃないか。あのときだって無理に部活を休んだんだ。今年は休めないよ」
私は急に涙があふれて、直彦に手を上げた。
「バカ! 直ちゃんなんて、何もわかっていないんだね! 病気がわかったときから、ず
っと本当のこと、言ってきたのに。去年、最後かもしれないと思ったのに、今年またもう
一度行けてよかったと、そういうふうに思えないの?」
叫ぶように言うと、自分のベッドにもぐりこんで泣きじゃくった。
そこに貴彦と有沙がやってきた。
「お母さん、泣かないでよ。お兄ちゃん、行くって言ってるよ。きっとお兄ちゃんも大変
なんだよ」
貴彦がティッシュを持ってきてくれて、有沙がそっと私の髪をなでてくれた。夫が風呂
から出てくる前に平静に戻らないと……。二人を抱きしめて、直彦を呼んできてもらった。
「直ちゃん、お母さん、疲れていて……ごめんね。でも、お母さんは ばあば(私の母)
が病気で入院していたとき、本当の病名を知らなかったから、忙しさにかまけてあんまり
お見舞いに行かなかったことを今でもずっと後悔しているの。親って、ずっといてくれて
あたりまえという気がしていたし。だから、直ちゃんには少しでも後悔が残らないように、
最初から本当のこと言っているんだから。お願い、お母さんの気持ち、わかって」
今年の夏もまた、三家族全員そろって伊豆に行くことができた。部屋に露天風呂がつい
ていて、夕食も美味しかった。食事のとき、
「敬子、おまえも飲んでみろよ」
と言う。まるで下戸で、飲むとすぐに眠ってしまう私は、
「えー、やだぁ。すぐ酔っちゃうから」
と断ろうとした。すると、夫は、
「酒は飲まなくても、ければいいんだから。おまえも少しずつ勉強しろよ」
「はいはい、そのうちね」
その夜、夫はほんのり酔って、とても楽しそうにしていたが、二人の親友に、
「おまえたちも身体に悪い生活しているんだから、ザルの目みたいな粗いドックじゃなく
て、年に一度、必ず忘れないで精密なドックを受けろよ。内視鏡はめんどうでも受けるん
だぞ、わかったな。俺を教訓にしてくれよ」
と何度も何度も繰り返していた。
その旅行の帰り道、なんとなく夫の声がかすれている気がした。風邪でもひいたのだろ
うか? なんだろう? 私の全神経は夫に集中していたから、ささいな変化も気になって
しまう。なんとなく嫌な予感がした。
若林先生にそのことを話すと、耳鼻科の受診をすすめられた。声帯の左側が動かない反
回神経麻痺だった。食道がんの典型的な症状で、食道のリンパに沿ってがんが大きくなる
と、声を出す神経の邪魔をするらしい。
「もし、がんがよくなったら、声は戻るのですか?」
と訊いてみた。しかし、先生の答えはこうだった。
「一度出なくなった声は二度と出るようにはなりません。麻痺した神経はそのままです」
そのとき、今回の旅行でビデオを撮っておいて本当によかったと思った。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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