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0556 第556話 さいごの約束 「第六章 有機の酒」

家に戻ると、夜九時を過ぎていた。
「敬子、子どもたちは寝かせておいたぞ。食器も洗ったし、俺は家事のほうが向いている
かもしれないな。仕事はおまえがやって、俺は主夫でもやるかなぁ」
思わず、「何言ってるの!」と叫んでしまった。これまで、私が出かけると台所は食器
の山だったし、ワイシャツを自分でクリーニングに出すことさえできないようなひとだっ
たのに。
それにしても、秋田に行ってよかった。次は認定機関を決めなくてはならない。東京に
はいくつもの認定機関がある。どうやって決めればいいだろう。また、いつものフレーズ、
「あなた、どうしよう」が出てしまった。
「そうだなぁ、認定料がどのくらいかかるかを調べて、ていねいに教えてくれるところが
いいんじゃないか。俺もおまえも何もわからずに始めるんだから」
早速、いくつかの機関に問い合わせをし、感じがよさそうだった二ヵ所を訪ねて、直接
説明してもらうことにした。その結果、説明のひとつひとつがとてもわかりやすく、どん
な質問にも答えてくれた認定機関に決めた。(認定料が高額なのには驚いたが!)。
ただ、酒造りが始まる十一月までに認定を取らなくてはいけない。今は六月。たった四
ヵ月で大丈夫なのだろうか。通常だと三年くらいかかるというのに。
提出しなければならない山ほどの書類、私たち蔵の人間が受ける講習、そして検査員に
よる酒蔵の検査を受け、指摘があったらそれを改善し、再検査を受けて、やっと認可が下
りるのだ。常識で考えても、かなり時間のかかることだった。有機米の田植えを頼んだと
き、すぐに行動していればよかったのに、どうしよう……。でも、どうしても今年じゅう
にこの酒を造りたいと思った。私は理由も言わず、認定機関の人に頼みこんだ。
「お願いします。どうしても今年、有機のお酒を造りたいんです。来年では遅いんです。
わがままなのはわかっていますが、なんとか可能な方法を教えてください。私たちには時
間がないんです」
しばらく考えたうえで、その担当者は案を出してくれた。
「では、少し予算オーバーになってしまうかもしれませんが、おたくの蔵の方々が、こち
らで定めた講習日に講習を受けにくるのではなく、大洗にうかがって、朝から晩まで一日
かけて、一度にやってしまいましょうか」
その言葉で光明が差した気がした。
「俺も講習受けるぞ」
七月末、夫もその出張講習に参加した。朝十時のオリエンテーションに始まり、夕方四
時半、小テストに終わる一日講習は、かなり充実したものだった。有機JAS法の概説、
認証のシステム、酒類における有機認定の表示はどうなっているか、酒造の施設、設備の
衛生管理がどうなっているかのチェック、原材料の入手、製造におけるポイント、製造過
程の記録の取り方など、本当に一日で有機認証のすべてがわかる講習だった。
夫はシステムだけではない根本的な「食」の大切さを理解したらしく、
「敬子、これからは有機かもしれないな。人間、基本は食べることだからな」
とつぶやいた。
そして、それから三ヵ月後の十月二十一日、酒造りが始まる直前、ぎりぎりのところで、
なんとか認定を取ることができた。
認定を受けられた理由の一つは、うちの蔵が古くてボロかったせいもあると思う。もし、
ボロを隠すためにペンキを塗ったり、ベニヤ板などを使って修理していたら、施設に使わ
れている素材の点で認めてもらえなかっただろう。酒造りに使う布も木綿はいいけれど、
ポリエステルはダメ。床板の間に入り込んでいる古い米も竹串で掘り出した。万が一、有
機の米をこぼしたときに混ざってしまうといけないから。そして、酒造りの一つの一つの
行程をすべて写真と記録に残していかなければならないのだ。何か不都合が生じたときに、
どの段階で、何が原因だったかを突きとめるためである
すべてをきちんと管理し、すみずみまで徹底的に清掃し、嘘やごまかしをしない。それ
が、有機の酒を造る準備段階で必要なことだった。さまざまな条件の課せられた有機の酒
は、他の酒を造る前に、一番最初に造らなければならないので、本当に厳しいタイムリミ
ットだった。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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