0555  第555話  さいごの約束 「第六章  有機の酒」

 

 いよいよ秋田に行く日が来た。事務所のパソコンが壊れてしまったため、早めに修理に
もっていったほうがいいと思い、出発の時間を少し遅らせようとした。それを聞いた夫が
まさに烈火のごとく怒りだした。
「そんなこと、やっているな! 早く行け!」
 社員の前だというのに、思いきり怒鳴っている。私は恥ずかしかった。
「そこまで怒らなくてもいいじゃない。一時間遅くなるだけなのに」
 しかし、とりつくしまがない、とはこのことで、また「早く行け!」と怒鳴る。一緒に
行く予定だった山田さんの携帯にまで電話して「早く出かけろ」と催促する始末。
 大急ぎで子どもたちの翌日の学校の準備をして、夕食、朝食の用意をすませ、後ろ髪を
ひかれる思いで家を出た。

 秋田までの車中、山田さんと話した。
「どうして、あんなに怒るんだろう。ごめんね。一時間、遅れると言っただけなのに」
「きっと社長は奥さんのことが心配だったんですよ。夜にならないうちに行かないと危な
いと思って」
 胸が痛かった。だったら、「有機の酒なんてやめよう」と言ってくれてもよかったのに。
「いや、違うんですよ。男ってうまく言えないけど、そういう意味じゃないんですよ。社
長が行ってこい、と言ったら、それでいいんですよ」

 秋田に一泊して、翌朝早くに蔵を訪ねた。
 村松さんの話どおり、この蔵の方は穏やかな人格者で、初対面の私たちに隅から隅まで
全部見せて、いろいろと教えてくださった。かなり苦労はあるだろうけれど、うちの蔵で
もやれそうな気がした。やってみたい! とも思った。
 午前中いっぱい見学させてもらい、お世話になったお礼を言って、秋田を後にした。車
の中で山田さんに「うちでもやれるよね」と言うと、
「やれますよね」
「じゃあ、予定どおりこのまま岩手に行って、親方にお願いしてみよう」
 ということになった。

 秋田での一部始終を杜氏に話すと、
「私にとって、有機の酒造りは特別なことだとは思えませんよ。うちの蔵は、いつも米を
洗うときから手洗いだし、酒造りというのは昔から手作業です。特に有機だからと言って
困ることはないような気がするんです」
 と頼もしい答えが返ってきた。
 有機の認定を受けるには、さまざまな手順を認定機関が定めたとおりにしなければなら
ない。そのなかには、米を機械で洗わない、洗浄に薬品、洗剤を使わない、ビニール製品
は使用しないなどの細かい規則があった。秋田の蔵を見て一番大変だと思ったのは、清掃
だった。薬品を使わずに蔵やタンクを洗浄するとなると、雑巾が絞れないほどの熱湯で何
度も何度も床や壁を磨き上げなければならない。そういった手間のかかる仕事を増やすこ
とになってしまうのだ。
「私たちも全員で洗浄を手伝いますから、どうぞよろしくお願いします」
 蔵の最高責任者である杜氏が快く有機の酒造りを受け入れてくれたことに、ほっとした。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)