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0554 第554話 さいごの約束 「第六章 有機の酒」

夏が近づくころ、また肝臓の検査をすることになった。「抗がん剤には薬剤耐性という
ものがあって、使っている薬が身体に慣れてしまい、効き目がなくなってくる」と本で読
んでいたため、いつその日がくるのか恐れてはいた。今回の検査はCTではなく、より精
密なフェリデックスMRI。
一センチくらいの腫瘍が三個発見された。
直感的に薬剤耐性ができてしまったのだと思った。
でも、若林先生は「まだ新たな転移とは断定できない。一ヵ月後に同じMRIの検査を
して判断しましょう」と言い、それまでは、一週間に一度の今の肝動注を続けることにな
った。
他にもたくさん聞きたいことがあって、いつものようにびっしり質問事項を書いたメモ
を持っていったのに、この日はもうそれ以上聞く気持ちになれなかった。
病院からの帰り道、車を運転しながら、不意に有機の日本酒のことを思い出した。
「あなた、どうしよう。お米はつくってもらっているのに、何もしていない。十一月に蔵
人がきて酒造りをするのに間に合うのかな?」
夫は怒った。
「まったく、おまえは! 何、無責任なこと言っているんだ。自分で最後までちゃんとや
れよ」
「秋田の造り酒屋まで見に行ったほうがいいって言われたけど、そんな遠くまで行けない
し……」
「行けないんじゃなくて、行こうとしないんだろう! 今の時期なら行けるから、うちの
山田と一緒に行ってもらえよ。車で行ってくればいい」
山田さんは、どうしても酒造りをしたくて転職してきた蔵人なので、たしかに有機の酒
を一緒に研究してもらうには心強い存在になりそうだ。夫から頼んでもらうと、快く承諾
してくれた。
あわてて有機の認定機関についても調べてみた。農林水産省の認可を受けた認定機関は
全国に数十もある。認定を取るには、その中の一つと契約して講習を受けなくてはならな
いのだが、一体どこを選べばいいのだろう。茨城にはないので、やはり東京だろうか。い
ろいろ情報を集めなければ。
もう一つ、重要な問題があった。酒造りは基本的に杜氏に任せている。うちで二十年来
お願いしている杜氏は岩手の人で、毎年十一月から翌年の四月まで四人の蔵人を連れて酒
造りに来てもらっている。蔵元にとって杜氏は非常に重要な存在で、蔵の酒の味は杜氏に
よって決まると言ってもいい。月の井ていう会社では夫に一番の決定権があるけれど、蔵
の中では杜氏にすべてが任されているのだ。私が勝手に「オーガニックの酒を造りたい!」
なんて言えば、杜氏はどう思うだろう。
月の井における私の立場は、社長の「奥さん」でしかない。これまで酒蔵見学の人を案
内したり、新しい酒のラベルを有名人に依頼して描いてもらったりといった協力はしてき
たけれど、酒造りをまったく知らない、酒も飲まない私の言うことを、果たして杜氏が聞
いてくれるのだろうか? 私の頼みで動いてくれるのだろうか?
「まず、自分の目で秋田の蔵を見てこい。そして、うちでもやれると思ったら、どうすれ
ば有機の酒ができるのか、親方(杜氏のこと)に会って説明し、とにかくお願いするしか
ないな」
という夫の言葉どおりにすることにした。前日に出発して秋田まで行き、翌朝、秋田の
蔵を見て、午後から岩手の杜氏を訪ねる段取りを組んだ。
そう決めたものの、具合のよくない夫を置いて、子どもたちまで預けて、秋田まで行っ
ていいものだろうか? 留守中に何かあったら……。一方で、もう今しか行ける時はない
かもしれない、という気持ちもあった。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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