0553  第553話  さいごの約束 「第六章  有機の酒」

 

 あっというまに六月になり、今年も有沙のバレエの発表会がきた。昨年も入院先から見
に来られるかどうかハラハラしたのだが、今回は薬の副作用がひどく、下痢に苦しみ、食
欲もなくなってしまい、脱水状態でふらふらしていた。一人で家にいさせることすら心配
な状態だった。
「敬子、遅刻したら有沙がかわいそうだから、早く行けよ」
 と心配する私をわずらわしそうに追い払おうとする。
「わかった。でも、体調悪かったら、ずっと寝ててね。動くと体力消耗しちゃうから」
 一応、俺の席も取っておいてくれよと言うので、有沙の出番はほんの数分だし、ビデオ
も頼んであるから、とにかく無理しないで、と言い置いて、有沙と二人で家を出た。
 車の中で有沙が訊いた。
「お母さん、バレリーナは、どんなことがあっても舞台の上で泣いちゃいけないんだよね」
「どうして?」
「だって、先生が言ってたもん。『小さくてもバレリーナだから』って。でもね、もし今
日パパが来てくれて、舞台の上からパパを見つけたら、泣いちゃうかもしれないな」

 有沙には、まだ本当のことを打ち明けていなかったが、子ども心に今のパパの状態を感
じとっているのかもしれない。どうしてもバレエを続けたいという有沙の希望でやらせて
はいるものの、以前のように手をかけてあげることはできなかった。自分で髪をシニヨン
にまとめ、お友だちが母親手作りのかわいいお弁当を持ってきているなかで、「コンビニ
のおにぎりでじゅうぶん」と言って自分で麦茶を水筒に用意する。できるかぎり私の手を
借りないように頑張っていた。「無理だったら、発表会はパパもママも来られなくても大
丈夫」と言っていたのに……。胸が痛くなった。

 開演直後に貴彦が現れた。てっきり祖母と一緒に来たのだと思ったら、違うという。
「え、じゃあ、誰と来たの?」
「パパだよ」
「パパはどこにいるの?」
 私は広い会場を見回した。
「駐車場が混んでいて入れなかったから、少し離れたところに停めにいったんだよ」
 えっ、あの状態で車を運転してきたのだろうか。玄関に走り出て、あたりを見回してい
ると、夫が歩いてきた。かなり遠くに車を停めたらしい。
「どうしてそんな無理をするの? 途中で抜けてね。帰りは私が運転するから」
「大丈夫だ、よけいなことを考えるな」
 客席に着くと、夫は沈みこむように腰をかけた。
 こんなに副作用の強い薬をいつまで続けることができるのだろう。有沙の出番が終わる
といつのまにか夫の姿は消えていた。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)