0550  第550話  さいごの約束 「第六章  有機の酒」

 

 二月末の検査でも肝臓のがんは縮小しており、一センチくらいの腫瘍がひとつだけにな
った。次の検査ではもっといい結果になるように、夫はあらゆる民間療法に必死になった。
 いやがっていた食事療法も、治療が良い方向にむかっていると思うと頑張れた。玄米ご
はんに有機野菜、魚中心の食事。大好きな肉は少しずつ減らした。
 免疫力を上げるためにはにんじんジュースがいいと聞き、ジューサーで毎日有機にんじ
んを搾る。最初のうちはりんごやみかんと一緒にミキサーにかけないと飲めなかったけれ
ど、慣れてきたらにんじんだけでじゅうぶん美味しい。普通のにんじんと違って有機のに
んじんにはうまみと甘みがあるのだ。子どもたちも喜んで一緒にジュースづくりを手伝っ
てくれて、母が嫁入り道具に持たせてくれたジューサー&ミキサーが十六年ぶりにほこり
をかぶった箱から出され、大活躍してくれた。

 毎日近くのスーパーに買い物に行く。夫の食欲がなさそうなときには、一緒に行って、
食べられそうなものを選ぶ。家族でスーパーに行って買い物をする、食べるものを吟味し
て選ぶということが、こんなに楽しいものだとは思わなかった。
 ひとつひとつ食品を手に取って、有機JASマークがあるかどうかを確認するのがくせ
になっていた。気がつくと、かごに入っている食品のほとんどが有機のものだった。東京
の高級スーパーに行かなくても、大洗でも有機野菜は手に入った。なんとなく時代の流れ
を感じる。有機にんじんの袋を買い物かごに入れているとき、ふと思った。
「どうして、和彦さんが大好きな月の井の酒は有機じゃないんだろう? うちのお酒も有
機だったらいいのに」

 帰宅して、早速夫に言ってみた。
「ねえ、うちのお酒も有機だったらいいと思わない? 私の大好きな梅酒もオーガニック
梅酒だったら、今よりもっと美味しそうになのに」
「そうだな。でも、それには、まず最初にオーガニックの日本酒を造らなければダメだぞ。
うちの梅酒は日本酒の原酒で仕込んでいるんだから」
「そうかぁ。じゃあ、あなた、オーガニックの日本酒を造ってよ」
 そう気軽に言ったら、夫が真剣な顔になった。
「おまえが造れよ」
「えー、できるかな?」
「できるよ。酒を造るのは杜氏と蔵人に託すんだから、どうやればできるかはおまえが調
べればいいんだ。
 有機の日本酒、俺も飲んでみたいな。きっと純米酒だろうな」

 そのときはたんなる思いつきだったけれど、夫の「飲んでみたい」という言葉が気にな
り、いろいろ調べてみた。酒造りにはあたりまえのことだけれど、まず有機の酒米を入手
しなくてはいけないことがわかった。
「あなた、どうしよう。どこで買えばいいんだろう」
「バカだなぁ、おまえは。義兄さんに訊いてみろよ。きっとどうにかなるぞ」
 すぐに夫が電話して聞いてくれた。義兄が紹介してくれたのは、茨城県内で有機米を生
産している山崎正志さんだった。幸運なことに山崎さんは、美山錦という酒造りに適した
米(酒造好適米)をつくることを了承してくれた。今回は実験的にやってみるので米は小
さいタンク一本分で十分だ。最小規模の二十俵と依頼したら、「そのくらいの量ならいい
ですよ」と言ってくれたのだ。 (つづく)

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)