0549  第549話  さいごの約束 「第六章  有機の酒」

 

 東京に行く日、いつも私は車の中にいる夫を待たせた。早起きの苦手な私は段取りが遅
く、子どもたちを学校に送り出してから支度をするのだが、必ず手間取ってしまう。なぜ
かワンピースを選んでしまい、自分ではうしろのファスナーを留められず、夫に頼むこと
になる。
「もう絶対ワンピースなんか買うなよ! 俺はいつまでも留めてやることができないんだ
から」
 一瞬、息が止まりそうになったが、あわてて冗談めかして言った。
「じゃあ、冬のバーゲンに行ってワンピース買っちゃおう。絶対そばにいてくれなくちゃ
困るもの」
「バカなこと言うなよ。いいか、俺の服もこれ以上買うなよ。無駄になるかもしれないん
だから。無駄遣いになるから、絶対やめろよ。買ったら怒るからな」
 夫は少しずつ痩せはじめていた。毎日、鏡を見ても自分ではあまり気がつかないらしく、
「体重は減ったけど、俺は見た目はあまりやせないんだな」
 と言っていたが、実は入院中にこっそりジャケットやズボンを洋服直しに出して、サイ
ズを詰めてもらっていたのだ。ワイシャツも首まわりがゆるくなってきていた。闘病中に
もかかわらず、毎日堂々と会合に出ていく夫を少しでも元気に見せるため、身体にフィッ
トしたワイシャツが欲しかった。でも、新しく買ったら、また怒るだろうし……。

 図々しい私は姉のところに電話をかけ、甥の成人式にあげたお祝いのお返しはワイシャ
ツの仕立て券にしてほしいと頼んだ。もらったもので作るのならば、夫も文句は言わない
だろうと思ったのだ。
 姉は快くOKしてくれて、遠くのデパートまでオーダーしに行かなくてすむように、わ
ざわざ義兄が水戸まで来て、地元のデパートで買って送ってくれた。きょうだいのありが
たさをしみじみと感じた。
 明るいピンク系の、身体にフィットしたワイシャツ。それを着て会合に出ていく夫を見
て、似合っていてカッコイイ、と思ってしまった。そんなふうに思えるのも病気のおかげ
かも。
「あなた、会合が終わったらまっすぐ帰ってきてね。飲みに行ったらダメだよ!」
 と玄関で見送った。
 できるかぎり普通の生活をという夫の願いを、一日でも長く続けたかった。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)