0548  第548話  さいごの約束 「第六章  有機の酒」

 

 夫の場合、抗がん剤の副作用は激しい下痢だった。副作用のひどいときは一週間休み、
その翌週から週一回の肝動注を受けるというサイクルになっていた。治療のない日は、夫
は平常どおり、朝七時半に出勤し、夜は会合に出席し、意欲的に人にも会っていた。
 このころ、慶応病院での治療と並行して受けていたのが、免疫療法だった。
 癌研にいたころ陳先生に打診して拒絶され、あとから、がんセンターの先生に理由を聞
かされて一度は納得したものの、肝動注を始めるころ、「これが効かなかったら」という
不安にかられてもう一度調べてみたのだ。
 実は、陳先生にきっぱりと拒絶されたあとも、あきらめの悪い私は、瀬田クリニックの
分院である新横浜クリニックに夫と一緒に行っている。そのとき、夫のリンパを触った医
師から「こんなに腫れていてはなぁ」と言われたうえに、看護師さんも「効かない場合も
ありますから」と何度も何度も念を押すので、すっかり不信感を抱いてしまった。しかも、
当時は1クール六回で百何十万ものお金を前払いしなければならなかった。そこで断念し
たのだが、慶応に比較的近い曙橋にビオセラクリニックという病院があり、免疫療法をや
っていることがわかった。

 早速、行ってみたところ、院長と話をすることができた。かなり多くのデータがあり信
用できそうな気がしたし、食道が専門のドクターだったのも夫のためには幸運だと思った。
そして、なにより慶応の先生と交流があったので、かけもちで受診することが可能になっ
たのだ。陳先生のケースがまさにそうだったが、免疫療法を受けたくても主治医の了解が
なければ、なかなか難しいのである。
 ビオセラクリニックでは、まとめてではなく一回ずつ支払うことになっていた。二十万
円。その金額は大きかったが、もし有効ではないと思えば、すぐに中止できる。

 免疫療法については前にふれたが、ここでも患者から採血した血液の中からリンパ球を
取り出し、それを化学物質で活性化し、また体内に戻す。元気になったリンパ球ががん細
胞を攻撃するというものである。患者にとってはあまり副作用がなく、しかも活性化した
リンパ球を注入すると一時的に身体がラクになるという点で人気がある。問題は、抗がん
剤投与とのタイミングだった。せっかく活性化して注入したリンパ球が抗がん剤によって
すぐ破壊されてしまったら意味がない。
 その点をクリニックの医師に相談すると、抗がん剤の影響はニ〜三日で身体から排除さ
れるので、そのころリンパ球を注入すると数日間は元気にがん細胞を攻撃してくれるとい
う。そこで、自然にスケジュールが決まった。木曜日の慶応病院の外来は動かせないので、
月曜日に免疫療法を受ける。週二日上京するのは大変だったが、命がかかっているのだか
ら、そんなことは言っていられない。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)