0547  第547話  さいごの約束 「第六章  有機の酒」

 

 肝動注を続けることにはなったものの、次の五回目でトラブルが発生した。ポートに針
を刺したのに薬が入っていかない。造影剤で確認したところ、カテーテルが曲がっており、
それが詰まりの原因だった。少し前にもポート近くのカテーテルから薬が洩れていて、手
術しなおしたばかりなのに、また入院して手術しなければならない。
 手術が無事終わり、退院を翌日に控えたある日、アイソボリンの点滴をしていた。その
一時間後にポートの上から針を刺し、二十分かけて5FUを注入するというプロトコルだ
った。なのに、その針を刺しにくるはずの医師が来ない。看護師さんが電話で呼んでくれ
たけれど、手術中で手が放せないとのこと。いつも一時間後には5FUの注入を始めてい
たのに、こんなことは始めてだった。時間が遅れると効き目が違うのではないかと、気が
気ではない。
「看護師さん、申し訳ないけれど、本当に先生が来るのか、もう一度電話して聞いてみて
ください」

 全身からふりしぼるような声で夫がお願いする。看護師さんが電話しに走った数分後、
若い医師が手術着のまま部屋に来た。
 ふだん温厚な夫が、
「先生、今までは一時間後ぴったりに5FUを開始していたのに、こんなに遅れて効き目
が変わってしまったら困るじゃないですか」
 と苦情を言った。すると、その若い医師は、
「たかが十五分遅れただけじゃないですか」
 と言う。いきなり夫がすごい勢いで怒りだした。
「こっちは命をかけて点滴を受けているんだ! 遅れてきて『すみません』のひとことも
ないばかりか、たかが十五分とは、どういうことだ! たかが十五分遅れてもよい治療な
ら、どうして初めから一時間後に開始するというプロトコルなんて決めるんだ! 今日は
もう点滴を中止してくれ。もうやめる。看護師さん、抜いてください」

 大変な剣幕で怒鳴っている夫の姿に、若い看護師さんはおろおろしている。
「すみません、すみません、いつもは温厚な人なんです。でも、どうか一回一回の点滴に
命をかけている主人の気持ちをわかってあげてください。今日は、もう中止してください」
 と私も頼んだ。全身、足まで怒りでふるえ、怒鳴っている夫を見るのは私も初めてで、
怖くなって涙が出た。私は泣きながら言った。
「本当に中止してくださって結構です。私が責任を持ちますから。もうやめましょう」
 点滴を中止して、医師も看護師も病室から出ていった。

「敬子、悪かったな」
「大丈夫。あなたの気持ち、わかるもん。手術の最中に抜けられなかったという先生の気
持ちもわかるけど。先生のスケジュールも考えて点滴の予定を決めるべきだったよね」
 そこに婦長さんが来た。
「坂本さん、ごめんなさい。私、不在だったもので、すぐに対応ができなくて」
 あたたかみがあって、いつも穏やかな婦長さんは、夫の話を聞いて涙を流した。
「お気持ち、わかります。本当にごめんなさい」
 ひたすら謝ってくださった。続いて小川先生と若林先生が病室に来て、三十分もかけて
夫の話を聞いてくれた。
「手術室に戻ってきたとき報告を聞いて、私も叱ったのですが。本当にすみません。今回
のことは、彼にとっていい勉強になったと思います」
 と先生は言ってくれた。実にありがたい言葉だった。夫もすっかり平静を取り戻し、
「いやぁ、おとなげなくて申し訳ありませんでした。最初に、たったひとこと『送れてす
みません』と言ってくれれば、こんなに怒ることはなかったと思うのですが。お恥ずかし
いかぎりです」
 と頭をかいた。その日のことは忘れられない大事件だったけれど、先生たちの迅速な対
応に、私たちは慶応病院が大好きになったし、今まで以上に主治医を信頼できるようにな
った。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)