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0545 第545話 さいごの約束 「第五章 残された時間」

年が明けて、一月四日。夫の誕生日が来た。四十六歳になることができた。何度も祝っ
てきたけれど、こんなにうれしい誕生日は初めて。久しぶりにケーキを焼いて、いろいろ
な料理をテーブル一面に並べた。来年も必ず誕生日ができますように。
冬休みが終わり、外来で肝動注が始まる。一月七日、また入院することになった。
病院に行こうとあわただしく身支度をしていると、次男の貴彦が「頭が痛い」と言いだ
した。熱を計ってみたが、熱はない。
「お父さんも大変だけれど、貴彦も大切だから、今日は病院に行くのやめようかな」
「本当? でも、行っていいよ。学校で熱が出たら、保健室に行くから。お母さんはパパ
のこと、見てあげて」
後ろ髪をひかれる思いだったが、夫の待つ病院に行った。少し早めに帰宅すると、貴彦
は元気なので、安心した。
でも、また翌朝、「少し熱がある。頭が痛い」と言う。少し変だとは思ったけれど、風
邪かもしれないし、その日は家にいて貴彦の様子を見ることにした。注意して様子を見て
いたけれど、きわめて元気だ。朝は確かに熱っぽかったのに。
翌日は登校したものの、腹痛で早退してきた。どうしたんだろう。親として不安なもの
を感じた。
夫が退院して家で普通に暮らしていると、貴彦はいつも元気そのものだ。でも、外来で
病院に行くときや、入院して私が見舞いに行くとなると、朝、決まって、「お腹が痛い!」
と言う。これは、ただごとではない。私が病院に行く朝、貴彦が体調不良を訴えると、そ
の日は学校を休ませて、一緒に慶応病院に連れていくことにした。長い待ち時間でも、本
を読みながら文句を言わずに待っていた。
噂には良く聞くけれど、貴彦も心の病気なのだろうか? 慶応の内科医、小川先生に相
談すると、子どものカウンセリングをしてくれる先生を紹介してくださった。とりあえず、
私一人でお話を聞いてみることにする。
「お子さんにお父さんの病名を話してありますか?」
とまず聞かれた。いえ、かわいそうで言っていません、と答えた。
「お母さん、本当のことを言わないほうが残酷なんですよ。きっとこの子は優しい子だか
ら、漠然とした不安を感じていて、どうしたらいいのかわからないんです。正確な病名を
伝え、『パパの病気がよくなるように協力して』と、子どもも仲間に入れたほうがいいん
ですよ」
がん、という恐ろしい言葉は子どもだって知っている。しかも絶対に治らないというイ
メージがあると思う。夫の病気がわかった直後、長男の直彦にあまりにも不用意に打ち明
けてしまった私は、なんとしても下の二人には知られまい、かわいそうすぎると考えてき
た。それなのに、この先生は病名を知らせないほうが残酷だという。
どうしていいのかわからず、途方に暮れた。人目もかまわず泣きながら歩道を歩いた。
やっぱり相談する相手は夫しかいない。和彦さんなら正しい答えを出してくれるだろう。
「そうか。俺がタカに言うよ。男同士だからな」
退院して家にいた夫は、そう言ってくれた。有沙を早く寝かせて、子ども部屋に入る。
貴彦の泣き声が洩れてくる。
「僕はわかっていたんだよ。お母さんが電話で話しているときとか、ヘンだと思ったし、
家にはがんの本があったし……。初めから言ってくれたら、よかったんだよ」
「ごめんな、タカ、でも、お父さんたちはタカのことが大好きだから、心配をかけたくな
くて言えなかったんだ」
「言ってくれればよかったんだよ」
二人が部屋に入って二時間ほどたっていた。貴彦は泣き疲れて眠った。
子ども部屋から戻り、居間のソファに腰かけた夫は、ひとこともしゃべらなかった。
今、やっている肝動注は効いているのだろうか? もし効いていなかったら、私たちに
残された時間は本当に少なくなっているはず……。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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