0544  第544話  さいごの約束 「第五章 残された時間」

 

 今回もこれが効かなかったらという恐怖と闘いながら、お腹のポートに針を刺す。この
入院中、二回肝動注をして、特に副作用はなさそうなので、退院することになった。
「電車で退院できる! 年末の忙しいときにみんなをわずらわせたくない」
 誰かに車で迎えにきてもらおうと思ったのに、夫がそう言い張る。荷物が多いので、退
院の前夜、子どもたちと持ち帰ることにして、水戸駅に降り立った。駐車しておいた車に
乗ろうとしたら、カギがない! 探しても見つからない。落としたのかなぁ……。荷物を
抱えているのでしかたなく、大出費だったが、タクシーで大洗に帰った。

 自宅に着き、玄関のドアを開けようとしたら、絶対に持っていると確信していた家のカ
ギもない。どうしたんだろう? ひょっとしたら病室に置いてきたボストンバッグの中に
入れてあったのかもしれない。携帯で夫に電話した。
「あなた、どうしよう。ちょっと探してみて」
 やはりボストンバッグのポケットに入っていた。この寒空の下、私たちは家に入れない。
今日はクリスマスなのに。まだサンタさんを信じている有沙、そして貴彦のために用意し
たプレゼントが家の中にあるのに。

 病院にいる夫に泣き言を言ってもしかたがない。母屋に泊めてもらうしかないと思って
いたところに、携帯が鳴った。
「バイク便で届けてくれるところを電話帳で探したから、母屋で待ってろよ。値切ったけ
ど、やっぱり高いな。もうおまえのクリスマスプレゼントはなしだぞ。でも、有沙と貴彦
には、ちゃんと枕元にプレゼントを置いてくれよ」
 ああ、たとえ和彦さんがどんな病気で、どんな遠くにいても、私はいつも、
「あなた、どうしよう」
 と電話してしまう。和彦さんがいなくなってしまったら、どうすればいいのだろう。
 私が車で病院に向う途中でも、必ず携帯が鳴る。
「今、どこだ。今日は外国の要人が来日していて道が混むから気をつけろ。必ず休みなが
ら運転するんだぞ」
 夫は無条件に私の行動を心配し、守ってくれている。頼まなくても、いつも気にかけて
くれている。でも、その人が、もうすぐいなくなってしまう……。私を心配してくれる人
はどこにもいなくなってしまうのだ。

 その年は静かに終わった。退院した翌日から夫は会社に出て、例年どおりの仕事納めを
した。大晦日に年越しそばを食べ、紅白を見て、いつもと同じに除夜の鐘を聞く。何もな
かった昨年の年越しと、まったく変わらない。
 唯一、口論になったのは、夫がこの寒空に大洗磯前神社の一番祈祷に行くと言いだした
ことだ。風邪をひいたら取り返しがつかない。子どもたちだって風邪を移さないようにプ
ールをやめたし、大嫌いなインフルエンザの注射も受けたのに、なぜあなたがそんなバカ
なことをするの? と詰め寄ると、
「言わないでくれよ。わかっている。でも、おふくろが元朝
(がんちょう)参りに行ったこと
がないから、行きたいと言っているんだ。それに、神社では毎年うちの酒を正月用に売っ
てもらっているから様子を見てこないとな」
 そんなに仕事が気になるなら、私が行くと言ってみた。
「おまえにそこまでさせられないよ。それに俺は病気になったことで、おふくろに人生最
大の親不孝をしてしまったんだから、いいんだよ。行かせてくれ」
 私には、もう言葉がなかった。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)