0541  第541話  さいごの約束 「第五章 残された時間」

 

 前回の肝臓の検査から二ヵ月後の十月二十一日、経過を見るため、フェリデックスMR
Iという精密な検査を慶応病院で受けた。結果が出るのは十日後だった。
 いつも結果を聞く日は恐ろしい。
「坂本さん、2番へどうぞ」
 イリノテカンが効いていますように! 祈りながら若林先生の前に座った。まだ凍結治
療の手術から二ヵ月半しかたっていない。そんな大変なことにはなっていないはずだ。
 若林先生のよく響く声がした。
「一センチから数ミリの肝転移が十数個ありますね」
 効いていなかった! イリノテカンが効いていなかったのだ。すぐに中止して、次の治
療法を考えなくてはならなかった。
「化学療法に関しては癌研の陳先生のほうが詳しいので、この結果を持って、ご相談して
みてください。こちらでも何か良い方法がないか考えてみます」

 私の頭の中は真っ白だった。夫はいつもと同じように若林先生にお礼を言って、診察室
を出た。ドアを閉めたとたん、夫が言った。
「敬子、仕事どうしよう?」
 あまりにも和彦さんらしい言葉だった。
「うん、私のできることは何でも手伝うから」と言いながら、何も考えられなかった。
 会計をして病院を後にした。車に乗ると、夫はいつものように「昼めし、何食う?」と
聞く。まったく食欲なんてなかったけれど、二人ともいつもと同じふりをする。夫の大好
物、「水明亭」の皿うどんを食べにいくことにした。慶応病院からすぐ近く、神宮外苑の
中にあるお店なのに、いつもは方向感覚のいい夫がぐるぐると外苑内を回ってしまい、な
かなかたどり着けない。
 やっと着いたけれど、大皿のちゃんぽんを食べるのは、たまらなくつらかった。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)