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0538 第538話 さいごの約束 「第四章 希望がみえた!」

夫は仕事に精を出していた。造り酒屋は秋が深まったころからが酒造りの本番である。
少し風邪気味だったので、早く治さなくては、と久しぶりに近所の医者に出かけて行った。
帰ってくるなり、すごい剣幕で怒鳴る。
「おい、敬子! 下村先生に『よかったですね。普通だったら、とっくにご臨終でしたよ』
と言われたぞ。どういうことなんだ!」
私はあわてた。あと十年は生きたいと希望を持って治療を続けている夫に、先生方から
言われた余命を教える気はなかった。今まで、医師たちに「主人に余命は伝えないでくだ
さい」と陰でお願いしてきたのだ。「この薬が効かなかったら、なすすべはありません」
「もう使える薬はありません」と言われたことがあるのも秘密にしていた。
だって、あきらめなければ、なんとか次の手を探し出せると信じていたし、事実、そう
なってきたから。しかし、身体から見えるがんがなくなった今なら、言えるかもしれない。
過去の話として、余命の宣告について伝えることができるかもしれない。
「本当はね、最初、陳先生に早い人で半年、平均十ヵ月って言われたの。でもね、それっ
て人それぞれの話だし、必ずしもあなたにあてはまるわけじゃないから、言わなかった。
あまりにも怖い話で、言えなかったの」
夫は怒った。
「バカ! どうして言わないんだ! 俺は言ってもらったほうがいいんだ。やらなくては
いけないことがたくさんあるんだから。聞いてないと、判断を間違うだろう」
「だって……」
この半年間、必死で秘密を守り、いつも夫の前で能天気に希望のあることばかりを言っ
て頑張ってきたのに、なぜ頭ごなしに叱られなければならないのか。私は久しぶりに声を
たてて泣いてしまった。
「ごめん、悪かったよ。でも、俺はおまえたち家族も大切だけれど、社員とその家族に対
しても責任があるんだ。もし、命がないのだったら、ないなりにやらなければならないこ
とがたくさんあるんだよ。これからは隠さずに、全部言ってくれよ」
と夫に言われ、思わず抱きついて泣きながら言った。
「本当に言ってもいいの? 本当に? 私、今まで苦しくてつらくて、不安になるといつ
もお姉ちゃんに電話していたの。でも、今度から全部話せるの?」
「それで、いいよ。そのほうが俺はうれしいよ」
その日から、私たちは本当の意味ですべてを正確に話し合って生活できるようになった。
不安を口にできることで、私は身体も気持ちもとても楽になった。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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