0537  第537話  さいごの約束 「第四章 希望がみえた!」

 

 普通に仕事ができるように、夫は癌研の外来でイリノテカンの点滴を受けることにした。
 外来の点滴の部屋は、両側にズラリと歯医者さんにあるような椅子が並んでいた。テレ
ビもついていたし、リクライニングの角度は自在に変えられる。とても快適そうに見えた
が、抗がん剤治療というのは、いわば身体にがんを殺すための毒を入れるようなものなの
だから、患者本人にとっては良い気持ちはしないだろう。
 イリノテカンが夫のがんを永遠に消してくれることを祈りつつ、外来で点滴を受ける日
日が続いた。最初は少なめで、副作用の様子を見ながら量を増やしていく。

 二週間に一度、点滴のために上京すると、ささやかなデートができて、不謹慎なようだ
が楽しかった。「点滴が終わったら、何を食べようか」。行きの車の中で相談する。そば
好きの夫は、いつも決まって「『権八』に行こう」と言う。西麻布の「権八」は、都内で
唯一「月の井」の看板があがっているお店。できるかぎりうちの酒を置いてくれている店
に出かけ、挨拶をして、お酒の評判を聞くのが夫にとっては“常識”なのだ。
「お酒も人気があるし、日本酒の原酒で仕込んだ梅酒がさっぱりして美味しいと好評です
よ」
 なんて言われようものなら、満面の笑顔でうれしそうに、
「ありがとうございます。これからも、もっとうまい酒を造るように頑張りますから」
 と言うのが決まり文句だった。

 その日も「また、おそばだろう」と思った私は、実はパスタとケーキが大好きなので、
夫が点滴を受けているあいだ、こっそり外苑前の「セラン」でパスタを食べた。病院に迎
えにいくと、
「たまには豪華ランチに行くか。フランス料理でもイタリアンでも、おまえの好きな店で
いいぞ」
 と夫が言う。
「えー、もうさっき一人でスパゲティ食べちゃったもの。おそばくらいなら食べられるけ
ど、そんなにたくさん入らないよ。この次でいいよ」
 と軽く言った。夫はいきなり怒りだし、
「なんで勝手に食うんだ。人がせっかく考えているのに!」
「だって、いつもおそばだから、たまには……と思っただけだもん。どうして、そんなこ
とで、こんなに怒るの?」
「昨日がおまえの誕生日だったからだよ!」
 えっ!? 一瞬、私は言葉が出なかった。昨日は朝から、
「今日は私の誕生日。何買ってくれるの? 何お祝いしてくれるの?」
 と夫をはじめ、子どもたち全員に言いまくっていたけど、結局、夜まで全員無視、私が
うるさいので、長男の直彦が子どもたちの出しあったお金でコンビニで「くまのプーさん」
の文具セット入り福袋を買ってきてくれたのだった。
 結婚生活も長くなると、まぁ、こんなものだろう。文句を言っているわりには、あきら
めていた。どこかで、これが和彦さんと過ごす最後の誕生日になったら寂しいという気持
ちはあったけれど、重い病人の人にグスグズ言うべきじゃない。ひと晩寝たら、すっかり
忘れていた。それを、夫は覚えていてくれた。ちゃんと考えていてくれたのだ。豪華ラン
チはかなわなかったけれど、その気持ちがうれしかった。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)