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0535 第535話 さいごの約束 「第四章 希望がみえた!」

いよいよ手術の当日。永遠の別れになるわけでもないのに、朝からものすごく緊張して
いた。でも、絶対に不安は口に出せない。子どもたちがいなければ、一体どうやって過ご
せただろう。長男の直彦以外はパパの本当の病名を知らなかったので、下の二人の無邪気
さに救われた。二人とも何度も売店や薬局にお使いに行っては、頼んだものとは違うもの
を買ってくる。そのたびに、アイスやチョコレートなどのおまけがついて、おつりは目減
りしていた。
午後になると看護師さんの出入りがはげしくなり、ついに夫が手術着に着替えるときが
きた。ストレッチャーに乗らず、歩いていくと言い張った夫だが、決まりだからと言われ、
しぶしぶ横たわる。家族はここまで、という場所に立ち止まり、「ニ〜三時間ですむ簡単
な手術だから」と何回も心の中で繰り返しながら、手術室に入る夫を見送った。
初めの二時間はすぐにたった。でも、そこからの一時間は砂時計の砂が落ちるのをひた
すら待つような気分だった。三時間たったのに、まだ戻らない。麻酔をかける時間をプラ
スすると四時間ちかくになるからと思いなおした。七時と見当をつけたのに、まだ……。
七時半を過ぎると十分刻みに時計を凝視してしまう。
たまらなくなり、看護師さんに聞いてみた。手術室に電話してくれて、もう回復室にい
ることがわかった。
廊下で待っていると、エレベーターが着き、夫が帰ってきた。
「あなた、あなた」
声をかけると、うっすらと目を開けて、
「大丈夫だよ」
と言ってくれた。その声を聞いて、思わず隣にいた看護師さんを抱きしめてしまった。
「ありがとう、本当にありがとう。心配でたまらなくて」
看護師さんは優しく抱きかえしてくれた。涙があふれて止まらなかった。長い長い五時
間半だったのだ。
入院してから知人の親友だということがわかり、何かと相談にのってくれている内科医
の小川先生と若林先生が病室にいらして、
「坂本さん、坂本さん、終わりました。うまくいきましたよ」
と声をかけてくださった。
「先生、ありがとうございました。本当にありがとうございます」
まだ完全に麻酔が覚めていない朦朧とした意識の中で、夫は何度も先生方にお礼を言っ
ていた。痛いとか苦しいという言葉ではなく、感謝の言葉だったことが夫らしいと思った。
若林先生から手術の説明があった。
肝臓のがんは、一番大きなものは六センチもあったという。合計五ヵ所に針を刺し、凍
結治療は予定どおりうまくいったのだそうだ。
手術が終わって数日後、神宮外苑の花火大会があった。病室の窓から、絵画館のドーム
型の屋根の上に見事に広がる大輪の花を見ることができた。そのころになると、夫はもう
手帳を取り出し、仕事の予定を調整し始めていた。
術後一週間で退院できることになった。退院前の内視鏡検査では、放射線が効いて食道
はきれいになっていた。組織検査でもすべてマイナス。これで肝臓さえ落ち着いてくれれ
ば、また平和な毎日が戻ってくるような気がした。
帰宅して、ひさびさに自宅のベッドで親子四人で寝る。子どもたちの寝息を聞きながら、
「また生きて、おまえや子どもたちとこうして一緒に眠れる日がくるとは思わなかったよ」
と、夫が突然言った。手術前には一度も弱音を吐かなかったのに。
ハラハラドキドキして眠れない夜が続いた私は、隣に夫の大きな肩があるというだけで
安心して、すぐに深い眠りに誘われた。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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