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0534 第534話 さいごの約束 「第四章 希望がみえた!」

いそいで癌研に戻り、陳先生に面会を申し込んだ。部屋に入っていらした先生に、
「あまりにも申し訳ない話なのですが、今、慶応病院に行ってきました」
と言った。陳先生の目をじつと見つめて、凍結治療に関する話の一部始終を説明した。
怒られて当然だと思ったが、
「どちらになさってもよいですよ」
と言われた。決して冷たい話し方ではなかった。私は思いきって聞いてみた。
「もし、先生の大切な方、ご両親や最愛の方が主人と同じ病気だったら、どうなさいます
か? 私たちにはもう何がいちばんよい方法なのかわからなくて、決められないんです」
「そうですね。たしかに難しいかもしれませんが、私の大切な家族が坂本さんと同じ状況
だったら、やはり可能性のあることは試してみないとあきらめきれないかもしれません」
陳先生は考えこみながら、そう答えた。さらに、癌研でもラジオ波焼灼術という凍結治
療と原理の似ている方法はあるのだが、原発性の肝細胞がん以外には適応した例がなく、
できないと説明してくれた。慶応で早めにしてくれるのなら、そうしたほうがいい。落ち
着いたらイリノテカンをやりましょうと言ってくださった。
めちゃくちゃなことを言う、自分勝手で最悪な患者だと、見放されてもしかたがないと
覚悟していたのに……。陳先生に心から感謝の気持ちを抱いた。
まだ広げていない入院用の荷物をまとめ、大洗に帰った。入院したはずのパパがソファ
に寝転がっているのを学校から帰宅した有沙が見つけ、大喜びで隣にもぐり込む。狭いソ
ファで父に抱きかかえられて寝ている姿を見ると、このまま時間が止まればいいのにと思
う。

八月六日、いよいよ慶応に入院する日がきた。お盆にかかってしまうので、仕事も家の
ことも心配だったけれど、この際、すべて社員たちに任せて入院することにした。この期
におよんでも、まだ社員に夫の病名は言えなかった。世間の噂になることもいやだったし、
もし、今回の治療が成功すれば、のちのち笑い話になるかもしれないと思ったから。
入院して手術前の検査をしたところ、困ったことが生じた。皮膚の上から針を刺すはず
だったのが、腫瘍の位置が胆のうや腸に近いので、確実に効果を上げるには小さく開腹手
術をしなくてはならなくなったのだ。手が入る程度の大きさと説明されたが、初めて手術
というものを受ける夫にとっては大事である。でも、この際、しかたがない。
その「手術」の前日、凍結治療のことを教えてくれた友人がひょっこり病室に顔を見せ
た。重苦しかった雰囲気が一気に楽しいものになり、外出許可をもらってみんなで食事で
もしようということになった。夫の好きなものを食べようという提案に、希望したのはな
んと焼肉だった。その友人が連れていってくれた店は本当に美味しく、みんなで楽しく食
べている最中に、夫が突然、呟いた。
「これが、人生最後の焼肉になったりして」
すぐに否定すればよかったのに、私はつい下を向いてしまった。すると有沙が、
「じゃあ、パパはこれからずっと“げんまいさいしょく”にするの? あーちゃんはいや
だなぁ」
と言ったので、大笑いになった。きっと、日ごろ、私と夫の押し問答を聞いていたのだ
ろう。いまさら玄米菜食に切り替えたからといって、劇的にがんが治るとは思っていない。
でも、「良い」と聞いたことは何でもやってみなくてはいけないような焦燥感にかられて
いた。しかし、四十五歳の大人、意思を持った人間の食生活を変えるのは難しい。三回玄
米を炊いて、一回食べてくれるのがやっとだったから、なかなか食事で病気と闘うことは
困難だった。
楽しい外食から戻ると、病室に看護師さんが来た。血圧を測りながら、
「坂本さん、何食べてきたんですか?」
「いやぁ、ちょっと焼肉を食べてきたんです。ビールは我慢しましたよ」
「まぁ、ビールどころか、普通の人は手術の直前にそんな脂っこいものを食べにいきませ
んよ」
「なんとなく精をつけようと思って」
ピントのずれた感覚に、みんな大爆笑してしまった。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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