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0533 第533話 さいごの約束 「第四章 希望がみえた!」

若林先生は夫と同年輩で貫禄があり、シャープな印象で、話し方もストレートだった。
先生は私が作った病気の経過を説明する表を見ながら言った。
「ご主人は私と同い年ですね。他人事のような気がしませんよ。CTの画像を見るかぎり、
凍結治療は適用できると思います。ただ、食道がんから転移した腫瘍にはやったことがな
いのでエビデンスはありませんが、やってみる価値はあります」
エビデンスってどういう意味だろう(あとで「臨床的、学問的な裏付け」ということだ
とわかった)。でも、先生が「やってみる価値はある」とおっしゃったのだから、受けて
みたいと思った。夫と自然に目が合って、二人でうなずいた。「行く必要があるのか」と
言っていた夫が、
「先生、お願いします」
とその場で頭を下げた。
「わかりました。早いほうがいいと思いますので、八月の中旬くらいに予定を組んでみま
しょう」
と先生は言い、数枚の紙を取り出して説明を始めた。
凍結治療は開腹せずにできる施術で、短時間ですむらしい。まだ日本では実験的な治療
であることを確認するためだろう。説明書をよく読むようにと指導を受けた。
肝臓に針を刺し、腫瘍を凍結させて壊死させるという基本的なことしかわかっていない。
なんとなく不安はある。しかし、目の前の若林先生のよくとおる声に説得力を感じ、夫も
私も信頼しても大丈夫という印象を受けたのだ。その直感を信じようと思った。
だが、このあと癌研に入院してイリノテカンの投与を受ける予定になっている。そのこ
とを伝えると、
「手術するなら、今の状態のままでしたほうがいいです。イリノテカンは手術後にまわせ
ませんか?」
と言われた。癌研で入院手続きをしたその足でここに来ているのだ。いくら図々しい私
でも、治療を延期したいので、入院をとりやめます、なんて言えやしない。でも、言いづ
らいからと言って、ぐずぐずしているわけにもいかないし……。私は呪文のように心の中
で、
「もう二度と後悔するようなことをしてはいけない」
と何度もつぶやいた。私にとっては、夫の人間ドッグを後まわしにしてしまったことが、
ずっとトラウマになっていたのだった。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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