0522  第522話  さいごの約束 「第ニ章 闘病が始まった」

 

 予定されていた抗がん剤投与のワンクールが終わった。一度退院してしばらく時間
を置き、ゴールデンウイーク明けに入院して次のクールを始めることになっていた。
 四月十日に退院する。
 薬で抵抗力が落ちているパパが帰ってきたら、絶対に風邪をひかせてはいけない。
 家族全員でどうしたら予防できるかを考えた。まず、貴彦と有沙はそれまで通って
いた水泳教室をやめることにした。水泳のあと、ドライヤーをきちんとかけないで濡
れた髪のままで帰り、風邪をひくことがある。私が付き添っていないと、そこが徹底
できない不安があった。運動の苦手な貴彦にとって水泳教室は唯一の身体を動かす楽
しみだったので、残念ではあったけれど、パパのためならとあきらめた。
 有沙はバレエ教室にも通っていたが、以前のように私が車で送り迎えをしたり、髪
をシニヨンにまとめてあげたりする時間の余裕がなくなっていた。しかし、有沙はど
うしてもバレエだけはやめたくないと言い張る。送り迎えは近くに住んでいる友だち
のお母さんに頼むからいい。髪は自分でまとめるから、お母さんにやってもらわなく
てもいいと言うのだ。まだ小学校二年生のこの子にできるのだろうか。私の心配をよ
そに、有沙は頑張った。ちゃんと一人できれいなシニヨンが作れるようになった。

 一方で、ジュースの回し飲みをやめようね、とみんなで約束した。誰かが風邪をひ
いていた場合、うつしてしまう可能性があるからだ。
 大好きなパパのために、子供たちはそれぞれ我慢することを決めた。
 退院してきた夫は、毎日、有沙と散歩するのを日課にして、海岸のほうまで歩いた。
「お母さん、今日、素敵なおうちの前を散歩したよ。パパが私が結婚するときにはあ
んな家を建ててくれるって」
 無邪気な娘の言葉に胸が痛んだ。夫は末っ子で初めての女の子である有沙をお姫さ
まのように大事にしており、よく一緒にお風呂にも入っていた。 夫が入院してから
有沙とお風呂に入ったとき、いきなり脚を私の膝にのせて「洗って」と言われたのに
は驚いた。なんと、夫は有沙の脚をお姫さまのように洗ってやっていたのだった。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)