0517  第517話  さいごの約束 「第ニ章 闘病が始まった」

 

 義弟の車に乗せてもらって、癌研へ。入院する部屋は古びているけれど、看護師さんた
ちはみんな明るくて感じがいい。私は担当のナースに思わず不安を打ち明けた。
「肝臓にも転移があるかもしれず、地元で診ていただいた先生には、あと一年の命と言わ
れました。そんなことって、あるんでしょうか? この先、一体どうなるのか、心配でい
られないんです」
「奥様が心配なさるのはよくわかります。誰だって初めてのことなんですものね。担当の
陳先生に何でも聞いてみるといいですよ。とても優しい方ですから」
 ちょうどそのとき陳先生が廊下を通りかかったので、今がチャンスと思い、声をかけて
みた。先生はナースセンターの中に入れてくださり、椅子に腰かけた。
「大変厳しい状態です。ご主人のような状態で、早い方だと半年、平均十ヵ月といえるで
しょう。この時点でホスピスに入られる方もいます」

 寒くもないのに、足がガタガタと震えた。止めようと思っても、手でおさえても止まら
ない。主治医の口から聞いた余命に、これは事実だという重さを感じた。本当は、余命一
年という残酷な言葉を否定してほしかった。さまざまな検査をして、その結果を知る主治
医から「そんなことはありません」と言ってほしかったのだ。
 一年だって短いと思ったのに……。
 ほとんど風邪をひくこともなく、雪の日だって素足にぞうりで外に出ていく人なのに。
 この人が死ぬなんて、信じられない。
 絶対に和彦さんには言えない! これから治療をしてよくなろうと思っている人に、そ
んな絶望的なことを言えるはずがない。このことは誰にも話せない。

 病院で過ごす初めての夜、ベッドのそばに座っているだけで、あっという間に夜になり、
帰宅しなければならない時間となった。ずっと一緒にいたい。ここに泊まりたいと思った。
入院して初めての夜を過ごす夫より、私のほうが心細い思いにかられていた。家には三人
の子どもたちが心配しながら待っている。でも、夫のぬくもりのないベッドで、絶望にか
られながら過ごす夜が怖かった。
「また明日来るね」
「おまえが来るとうるさいから、来なくてもいいよ」
「やだ。子どもたちが学校に行ったら、ダッシュで来るからね。じゃあね」
 冗談まじりの会話を交わしながら手を振り、病室のドアを閉めた。そのとたんに涙があ
ふれた。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)