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0514 第514話 さいごの約束 「第ニ章 闘病が始まった」

三月二十二日、内視鏡の検査を行った。
その結果、放射線と抗がん剤の併用治療を受けることになり、この日、入院手続きをし
た。
陳先生は印刷された治療スケジュールを手元に置きながら、私たちに話した。
「最初は放射線と抗がん剤の併用を考えていましたが、CTの結果、肝臓に影が見られま
す。こうなると話が違います。抗がん剤のみの単独治療で、薬はシスプラチンと5FUを
使用しましょう。副作用は少々の色素沈着、吐き気がするという人もいます。でも、吐き
気止めを使うので大丈夫ですよ」
夫は先生の言葉をさえぎった。
「抗がん剤で脱毛もあるのでしょうか?」
「人によりけりですが、ほとんどないと思いますよ」と先生が言うのに、なおも「抗がん
剤なのに大丈夫ですか?」とくいさがる。
「抗がん剤にもいろいろありますが、この薬は大丈夫ですよ」
夫はやっと安心した顔をした。仕事をしながら治療するつもりなので、周囲の人にがん
だとわかってしまう脱毛だけは困るのだ。
ここでもう一つ問題が生じた。ベッドが満床で、いつ入院できるかわからないのである。
二週間前後かかるかもしれないという。一年しか生きられない病人なのに、二週間も待た
されたら、がんが悪化してしまうのではないか。そう先生に言うと、
「大丈夫です。がんは週単位ではなく、月単位で進行しますから」
その言葉も、こちらを安心させるための嘘ではないかと疑ってしまう。これから、ひた
すらベッドが空いたという連絡を待ち続ける毎日になるのだ。その電話も会社のほうにか
けてもらうわけにはいかない。がんと名のつく病院から連絡があれば、社員たちも何事か
と思うだろう。

入院が決まるまでのあいだ、まだ夫が元気でいるうちに子どもたちのために思い出をた
くさん残してあげなくてはいけないと、私の気持ちはあせっていた。なにしろ、末っ子の
有沙はまだ小学校一年生。和彦さんがあと一年しか生きられないとしたら、たった七年分
しかパパとの思い出が残らないことになってしまう。
子どもたちの春休みを利用して、上野動物園に行くことにした。いまどき見かけなくな
った、大きくてほこりだらけの旧型ビデオカメラを押入れから出してきた、子どもたちが
赤ちゃんのころはよく撮っていたのに、最近は写真すら撮ることを忘れていた。でも、こ
のカメラで元気な和彦さんの姿を少しでも多く残しておきたい。
上野は桜のさかりだった。手にしたソフトクリームの上にもひらひらと花びらが落ちて
くる。これまで、桜はいつもうれしい思い出のときに咲いている花だった。夫との結納の
とき、子どもたちの入学式、遠足……。でも、今年の桜はとてつもなく哀しい。来年は、
もう一緒に見られないかもしれないのだから。大きな満開の桜の木の下で家族一緒の写真
を撮る。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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