0512  第512話  さいごの約束 「第一章 恐ろしい宣告」

 

 トイレに行こうと思い、玄関に夫を待たせたまま、病院の中に戻った。向こうに見覚え
のある医師が歩いている。さっきお会いした外科の先生だ。私は思わず走り寄った。
「さきほど診ていただいた坂本和彦の家内です。先生、お忙しいところ申し訳ないのです
が、一つだけ教えてください。なぜ先生は、夫の主治医を内科の陳先生にとおっしゃった
のですか」
「ご主人はどこにいらっしゃいますか」
 先生はあたりを見回した。
「玄関で待っています」
 安心した様子で先生は、
「首のリンパ節に転移があります。鎖骨の上が腫れていましたから。リンパに転移がある
というのは、リンパの流れに沿って身体全体にがんが散らばっているということですから、
今手術するのは得策ではありません。となると、内科で治療するのが一番なのです」
「つまり手術はできないということですか?」
 先生は続けた。
「手術ができなくても科学療法や放射線治療で余命が長くなる可能性はあります」
 一体、先生は何のことをおっしゃっているのだろう。「余命が長くなる」ってどういう
こと!? 頭の中が真っ白になった。もう内視鏡や細胞診、他のたくさんの検査結果を待
つまでもなく、和彦さんは間違いなくがんなんだ。こんなに元気そうなのに、がんという
恐ろしい病気は、夫に「余命」という言葉を突きつけるのか。

 もちろん夫に話せるはずもなく、重苦しい気持ちのまま水戸駅に着いた。子どもたちを
義母に預けているので一刻も早く帰宅しなければならなかった。
「敬子、佐川で寿司でも食っていくか」
 思いがけない夫の言葉だった。「佐川」というのは月の井のお得意先の一軒で、夫が会
合のあと、よく一杯やりに行く店だ。そこに夕方から二人っきりで行くことなど、今まで
一度もなかった。
 マスターとなにげない会話を楽しみながら、食事をした。夫は珍しくお酒をほんの少し
しか飲まず、ずいぶん残していた。私は隣で笑いながら、あと何回一緒にこの店に来るこ
とができるのだろう……と思っていた。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)