0508  第508話  さいごの約束 「第一章 恐ろしい宣告」

 

 結婚して茨城県の海に面した街、大洗に来た私は、夫以外に誰も知り合いがいなか
った。
 実家は商売をやっていたものの、造り酒屋の仕事には何の知識もない。プロポーズ
されたとき、「蔵元の奥さんなんて、とうてい私には務まりそうもないから」ためら
ったのを「家業の手伝いは何もしなくていいから」と説き伏せられ、それならと承諾
したのだった。だから、酒蔵に隣接した母屋には住まず、少しはなれたところにある
私たちだけの家から、夫は毎日通っていた。結婚当初、私はまったくの専業主婦だっ
た。小さな家は掃除をしてもあっという間に終ってしまい、日がな一日時間を持てあ
ましていた。一日のうち、夫以外の人と話したのは、実家の母との電話だけというこ
ともあった。

 そんな私を外に連れ出してくれたのは、夫の中学や高校時代の友だちの奥さんたち
だった。テニスやランチに誘い出してくれて、やつと大洗にもなじめるようになって
きた。
 知り合って半年で結婚した夫は、とてもその年代の男性とは思えないような古風で
頑固な「平成の石アタマ」である。生まれたときから蔵元の長男として、つねに「家
長」であらねばならないと無意識のうちに洗脳され続けたからだろうか。頼りになる
反面、信じられないほど保守的だった。

 新婚まもないころ、夫が仕事で私の実家の近くに行くというので、一緒に連れてい
ってと頼んだ。知り合いもなくさびしく暮らしていたので、実家の母にたまらなく会
いたかったのだ。しかし、夫は仕事で行くのだからダメだという。
「結婚したら、女は家でまっているもんだ」
 と今どきめったに聞かないようなフレーズを持ち出され、私はあぜんとした。
 夫の家長意識は年を追うごとに、ますます強まっていった気がする。
 長男の直彦が中学受験に合格したお祝いにみんなでハワイに行くことにしたのだが、
夫は全員同じ飛行機に乗るのはいけないと言いだした。跡継ぎの直彦と次男の貴彦は
違う飛行機に乗らないと、万一のことがあったとき、蔵を継ぐ者がいなくなると言う
のだ。なんとか言いくるめて同じ飛行機にしたものの、今どき珍しい発想の人なのだ。
 だから、ふだんはささいなことで衝突することもしょっちゅうで、夫を頼りにはし
ていたものの決して新婚気分が抜けないような甘い関係の夫婦ではなかった。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)