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0505 第505話 さいごの約束 「第一章 恐ろしい宣告」

ふと、東京に住んでいる京子叔母を思い出した。心臓を患っている叔父の看病を続けて
おり、「普通なら命はなかった」と言われるほどの病状をサポートしてきた叔母である。
あらゆる病院や治療法を自分で研究しつくした。あの叔母なら何かいい知恵を貸してくれ
るに違いない。そう思ったら、いてもたってもいられず、公衆電話に向かって歩きだして
いた。夫に疑われている病気について説明するうち、昨日以来始めて涙がこぼれた。打ち
明けられない不安を誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
「敬子さん、とりあえず落ち着いて。まだ、がんかどうかわからないでしょう。もし、が
んだとしても、知り合いの多い水戸ではなく東京の病院を紹介してあげるから。とにかく
内視鏡の結果が出たら、すぐ連絡してちょうだい」
ありがたい叔母の言葉だった。たしかに検査結果が出るまでわからない。夫が出てくる
まで待とう。
四十分ほどたっただろうか、涙目で、顔を真っ赤にした夫が検査室から出てきた。
「苦しかったよ。内視鏡検査なんて初めてだろ、ホントに苦しかった。結果はどうだった
んだろうな」
今日採った細胞の組織検査の結果が出ないとわからないという。また今度の外来日にと
言われたとき、もうこれ以上待てないと思った。
「先生のご経験上、見た感じでどうだったかだけ、お聞かせください」
とくい下がると、外来の診察室で説明してくださることになった。祈るような気持ちで
部屋に入っていくと、夫の食道の内視鏡写真が貼られている。
「まだ細胞診の結果が出ていないのではっきりしたことは言えないのですが、私の見たと
ころではがんだと思います。今後、CTや超音波、レントゲンなどの検査を受けていただ
くことになるでしょう」
「すぐ入院しなければならないのですか?」
「いえ、入院はまだ先です。とりあえず外来で検査しますので、予約を入れておきます」
他にも訊くべきことがあるのだろうけれど、声が出ない。お礼を言うのが精一杯だった。
人目を避けるように会計を済ませ、車に乗り込んだとき、やっと会話ができるようになった。
「どうしよう、本当にがんなのかな? ドックに行かなかったら大変なことになっていた
ね。別に自覚症状はなかったでしょう?」
すると、夫は驚くべきことを言った。
「いや、去年の十二月ごろ、おふかしを、ひねりもちにして食べたんだけど、喉に詰まっ
て吐いたんだ。きっと食道が詰まっていたんだろう。だから、気になってドックを予約し
てくれって頼んだんだ」
「おふかし」というのは、酒造りの過程の最初に、精米して、ていねいに洗った酒米(さか
まい・酒造り用の米。ごはん用の米は飯米と呼ぶ)を蒸かすのだが、その蒸かした酒米のこ
とである。夫はそれを軽く手で搗(つ)いて、もち状にして食べるのが好きだった。
それにしても、いつもの年だったら秋に人間ドックを受けていたのに、昨年にかぎって
仕事が忙しくキャンセルしてしまったのだ。三ヵ月あとではなく、そのときすぐ受けてい
れば……。もう遅いことはわかっているが、後悔の念しか浮かんでこなかった。毎日一緒
に暮らしていながら夫の異常に気がつかなかった私は、なんとうかつな妻なんだろう。そ
のことを夫に詫びた。
「いや、おまえのせいじゃない。自己管理ができなかったんだから。まさか俺が病気にな
るとは思わなかったからな」
そう、夫は中学・高校とラグビー部で活躍し、大学時代はスキー部で一級の腕前、身長
一七二センチの頑健な身体つきをしていた。冬になっても風邪ひとつひかない。健康その
ものの人だった。結婚するときも、私の母に、「健康だけがとりえです」と挨拶したくら
いだったのに。
(坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)
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