0504  第504話  さいごの約束 「第一章 恐ろしい宣告」

 

 翌日の三月十九日、朝食の準備をしながら、ふと思いついた。朝食を食べずに日赤に行
けば、今日のうちに胃カメラの検査をしてもらえるかもしれない。
「あなた、悪いけど朝ごはん食べないで病院に行こう」
 いそいで駆けつけた水戸日赤の外来は、早朝から座るところもないほどの混雑だった。
こんなにたくさん、みんなどこが悪いのだろう。きょろきょろと見回していると、後ろか
ら声をかけられた。
「どうも、ごぶさたしております。混んでますねえ。私はおふくろの検査の付き添いで来
たんですが、社長はどこかお悪いんですか?」
 お得意先の酒販店の店主だった。
「いやぁ、腰をひねってしまったらしくて。ひさびさに配達しようとしたらギックリ腰で
すよ。情けないですね」
 うろたえている私をよそに、夫は平然と答えている。たしかに造り酒屋と同時に酒類問
屋も兼ねているわが家は、職業柄、重いものを持つ機会も多い。三〜四日前、ビールのケ
ースを抱えようとして腰を痛め、コルセットをはめたことがあったから、まんざら嘘とは
いえないが……。その後も長い待ち時間のあいだに知人を三人ほど見かけ、そのたびに逃
げるように姿を隠した。

「敬子、俺は入院するなら地元はいやだな」
 夫がぼそっとつぶやいた。私にもその気持ちは手にとるようにわかる。商人魂がしみつ
いている夫としては、大切なお得意さんに会ったら、まず「月の井です。いつもお世話に
なっております」と挨拶をしたい。それが逃げ隠れしなければならない状況になるのはい
やなのだ。しかも、すぐに噂の伝わる地方都市のこと、夫が病気だということが広まれば、
商売にも影響が出てしまう。

 やっと順番がきて、診察室に呼ばれた。紹介状を読み、カルテに記入しながら、先生は
言った。
「レントゲン写真だけでは、なんともいえませんね。内視鏡検査をしてみないと」
 そのために朝食を抜いてきたのだ。何が何でも今日、検査してもらいたい。強引に頼み
込んだ。
「そうですねぇ、うちに食道のいい先生がいるので、もし手が空いていればお願いできる
のですが。訊いてみましょうか?」
 運の良いことに、その先生は病棟でつかまり、すぐ内視鏡の検査を受けられることにな
った。喉に麻酔をスプレーされ、夫は検査室に入っていく。検査を受けている時間の長さ
に私は耐えられなかった。 (つづく)

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)