0503  第503話  さいごの約束 「第一章 恐ろしい宣告」

 

「早く行け、って言ってたぞ」
「言ってたぞって、自分のことじゃない。どうしてもっと早く言ってくれないの」
 思わず、詰問調になった私に、
「言うと、またおまえが大騒ぎすると思ったからだよ。写真見せてもらったけど、俺が見
ても食道のところが変な形に変形していたんだ。俺、悪い病気かな?」
 と夫は言いわけした。なぜ、今ごろ言うのだろう。帰宅したときは「何でもなかった」
と言っていたくせに。きっと最初は黙っていようと思ったのだろう。しかし、不安に耐え
かねて切り出したのではなかっただろうか。そのときは、そんな夫の気持ちを察する余裕
もなく、私はすぐにその病院に電話をかけ、紹介状に書いてある医師の外来日を訊ねた。
運の悪いことに、その当日が外来日で、次の外来は祝日で休み、診察を受けるまでに一週
間も待たなくてはならないことがわかった。なんとなく「これは一大事だ」ていう予感が
して、とても一週間も先まで待っていられない。
「何が何だかわからないから、とりあえず子どもたちがかかっている近所のお医者さんに
行ってみよう。受付が六時までだから、早く支度して」

 総合病院宛ての紹介状を手に、近所の下村医院に駆け込んだ。紹介状の宛て先ではない
先生にお見せしてもいいのだろうか。でも、厳重に糊付けをした、その中身が気になって
しかたない。
「大丈夫ですよ。紹介状を宛てた先生でなくても、医者が開けることに問題はないですか
ら」
 と言って封筒を開け、手紙を読み始めた下村先生がみるみる難しい顔になってくる。
「一刻も早く検査したほうがいいですね。悪性腫瘍だったら大変ですから」
 やっぱりドックで「すぐ検査をしなさい」と言われるというのは、ただごとではなかっ
たのだ。どうすれば、いいのだろう。気持ばかりが焦ってしまう。
「その紹介状の先生にかかるには来週の診察日まで待たなければならないんです。それに
病院もここから遠いし、なんとか水戸の赤十字病院に行くことはできないでしょうか?
よい先生をご存知でしたら、ご紹介くださいませんか」
 下村先生は水戸日赤の外科の先生に紹介状を書いてくれた。その紹介状を大切に握りし
めて帰宅した。
 酒蔵に隣接している母屋での夕食が待っていたが、七十一歳になる夫の母に伝えるべき
かどうか。夫と二人で悩んだ結果、とりあえず今日のところは黙っていよう、できるだけ
普通にふるまおうということにした。とにかく、まだ検査の結果は出ていないのだ。大騒
ぎすることはない。しかし、夕飯のあいだじゅう、義母との会話が宙に浮いているようで、
なんとも居心地が悪かった。
 自宅に戻り、長い長い一夜を迎えた。夫は下の子どもたちと一緒にお風呂に入っている。
いつもと同じ、楽しそうな声が聞こえる。でも、私は何をやっても集中できない。
「ねえ、あなた、悪い病気だったらどうしよう」
 ベットに入って、いつもと同じように好きな小説を読みながら私を待っていてくれた夫
に、思わずそう口にした。夫はのんびりとした口調で答えた。
「考えてもしようがない。とりあえず明日、日赤に行けばわかるから」

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)