0502  第502話  さいごの約束 「第一章 恐ろしい宣告」

 

「俺、今日のドック、特に問題なかったから。しいて言えば、太りすぎかな」
 ソファに寝転がっていた夫が、突然そう言った。
 その日、夫の留守中に息子の同級生の母親たちとランチを共にした私は、中学二年生で
反抗期まっさかりの長男、直彦が返されたはずのテストの結果を見せようとしないことに
ついて愚痴を言っていた。自分が話していた話題とのズレにとまどいながらも、
「よかったね。じゃあ今日のお夕飯は、お刺身と湯豆腐にしようね」
 と言った。その日、夫は年一回受けている人間ドックに友人と共に出かけ、夕方近くな
って帰宅した。いつもは秋に行くのだが、昨年の秋は仕事が忙しかったために行けず、三
月に入ってから約一年半を空けての検査だった。忘れもしない二〇〇二年三月十八日のこ
とである。

 下の二人の子どもたち、小学校三年生の貴彦と一年生の有沙が帰ってきた。すぐにスイ
ミングスクールに連れていかなくてはらない。貴彦は、運動嫌いだけど、有沙にだけは負
けたくないので休まずに通っている。上の直彦は中高一貫校のラグビー部で頑張りすぎて
勉強に身が入らないのが悩みの種。有沙は四歳のときに始めたバレエに夢中で将来の夢は
バレリーナになることだという。まんなかの直彦だけ、ちょっとタイプが違うのだ。

 夫、坂本和彦は四十五歳、一八六五(慶応元)年に創業した造り酒屋「月の井酒造店」
の六代目として、仕事に明け暮れる毎日だった。亡くなった父親の跡を継いで十三年。ま
さに働きざかりである。
「子どもたちをスイミングに連れていって、そのあと先に母屋に行くね」
 夫に声をかけながら、玄関でいそいで靴を履こうとしている私に、
「敬子、待てよ」
「何? 早くしないと間に合わなくなっちゃうよ」
 と足踏みをする私。
「俺さあ、今日ドックで変な手紙、渡されたんだ」
「えっ、何? 見せて」
 夫が差し出した茶色の封筒は、水戸市にある総合病院への紹介状だった。厳重に糊付け
されていて、開けることができない。
「バリウム検査をしたら、何か食道の形が変だったみたいなんだ。それで、早めに病院で
診察してもらったほうがいい、と言われたんだよ」

 かかりつけの総合病院があるかと問われた夫は、ふだん風邪すらめったにひかないため、
医者にはまるで心あたりがなかった。そう伝えると、ドックの医師がその病院と担当医を
紹介してくれたのだという。 (つづく)

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)