0501  第501話  さいごの約束 夫に捧げた有機の酒「和の月 (なのつき)

 

 株式会社月の井酒造店
 代表取締役社長
 坂本敬子さん

 四十七歳の若さでがんに倒れた夫の最後の日々、そして夫が発病してから思いたって
造り始めた有機の酒「和の月」についての記事が、二〇〇四年五月、朝日新聞の朝刊に
掲載された。
 その記事が載ってから、さまざまな人々から問い合わせや取材の申し込みがあったけ
れど、和彦さんがいなくなってこの一年あまり、何もかもが落ち着かないまま、家業の
造り酒屋を社長として引き継いだ私には、とてもそのすべてに対応する時間もゆとりも
なかった。
 ふと気がつくと、苦手なものがたくさんできてしまった。運動会、遊園地、日曜日の
ファミリーレストラン、家族旅行・・・。でも、現在高校三年の長男、中学一年の次男、
小学校五年の長女と、三人の子どもたちは元気に一日一日大きくなっていく。どんな大
人になるのかまだわからないけれど、パパと一緒に病気と闘った二年間はきっと大切な
たからものとして心の中に残っていくと信じたい。

 プライベートなことを本にするのは、とても悩んだが、発病以来のいきさつを書くこ
とで夫と同じ病気で闘っている人たちの参考になればとも思ったし、記憶の新しいちに
父親の生き方を子どもたちに正確な記録として残してやりたいという気持ちもある。
 高校生の長男はともかく、まだ幼い下の二人はパパのことを日々忘れていってしまう
のではないかと不安になってしまうのだ。
 書きながら悲しくなりすぎて、あるいは闘病中の日記を読みかえすだけで、もう一行
も書けなくなってしまった夜もあった。でも、書くことで私自身の気持ちはだいぶ落ち
着いた。夫からの宿題をひとつひとつ確かめていく作業ともなった。
 志半ばにしてという言葉があるが、これからやりたいことがたくさんあった一家の大
黒柱が倒れたとき、家族全員が力を合わせてどんなふうに病気と闘ったか、そして、夫
が身をもって教えてくれた酒造りという家業を継承していくことの困難と喜びについて、
少しでも描きだすことができただろうか。

「苦しいこと、悲しいこと、悩みのあることが、生きて生活している証拠なのだから、
それでいいんだよ」
 というのが口ぐせだった夫の思いを少しでも伝えることができたら、遠いところにい
ってしまった夫との約束が果たせるような気がする。

 (坂本敬子著 「さいごの約束」 文藝春秋刊より)