0497  第497話  酒蔵の町・新川ものがたり 「高野山他」
  高野山と善光寺に墓地造成

 山伏姿の木藤七、寿一
 原島立次郎
  (向かって右から)

 大正2年から3年にかけて藤七は、木家伝来の菩提所・浅草源隆寺のほ
かに、高野山と長野の善光寺に新たに墓を造成した。理由は明らかではない
が、忠吉の次男・藤夫の生前語ったところによれば、「丁稚小僧の苦難時代、
陰に日向に自分を庇護してくれた恩人の先代原島彦七に対する追慕の気持ち
のあらわれと聞いている」という。
 事実、木家には大正2年、善光寺境内で一人の僧侶の見守る中、「東京
原島家之墓」前にたたずむ藤七の姿を撮影した一枚のスナップ写真が残され
ている。
 藤七が四男・寿一と原島立次郎を伴って高野山に赴いたのは、大正2年7
月28日のことであった。
 同日付「雄次郎日記」には、「快晴、父上、寿一君及原島立次郎君、高野
山参リノ途中、今夜8・30来着、梅田駅に迎ふ、本日ハ堺大浜泊り明朝高
野へ発足する由、頗(すこぶ)る元気なり」と記録されている。

 7月30日には、清浄心院執事・泉井教応師立会いのもと高野山奥ノ院に
墓地を選定。墓石建設費として五十円(別に使用料三円)を支払った(雁皮
の手帳)。そのあと3人は山伏姿となり、修験者が修行したといわれる大峯
山(標高1700メートル)から、吉野、葛城に登山。帰りは静岡駅に下車
し、久能山・龍華寺に詣で、江尻から御殿場へ出て、ここで8月6日三男・
宗次郎と合流した。そして翌7日富士山に登り、吉田口へ出て猿橋を見物し、
8日に帰宅した。

 さらに同年9月30日には、単身、長野の善光寺に赴き、大勧進管理地内
に墓地を選定、同日午後9時、本堂において「観雪」の号を受けた。帰りは
信越線上田駅近くの旅館「扇屋」に宿泊、相当に酩酊し10月2日、同旅館
主・山極半三に送られて帰宅した。扇屋旅館主・山極半三は、長野の旅館五
明館主・中沢四郎三郎の弟にあたり、両館とも藤七が清酒品評会審査員とし
ての長野出張、あるいは善光寺参りにさいして常宿としていた。兄弟ともに
木魚音響会に入門し、藤七とは深い交友関係にあった。

 翌3年4月には高野山の墓碑が完成、22日長男・忠吉を伴い関西旅行を
兼ねて墓碑完成供養の旅に出た。さらに同年12月には善光寺の墓碑が完成、
忠吉および長部慎三の両人を伴って同じく供養の旅に出発したのだった。
                             (中略)

(酒蔵の町・新川ものがたり 大関と木藤七、木藤夫、木文雄、
 沢和哉共編 清文社刊より