0493  第493話  酒蔵の町・新川ものがたり 「淘宮(とうきゅう)術1」
  下町の商人に広まった淘宮術

 自己の過ちを反省し、たがいに切磋琢磨する淘宮術は、明治、大正時代に
かけて下町の商家の間に広まった修養法の一つである。
 この修養法は、天保五年(1834)横山丸三(まるみつ)の創始になる
ものといわれ、明治政府の民部卿、大蔵卿を歴任した松平春嶽などが入門、
早稲田大学の創立者、大隈重信なども最善の修養法として推奨していた。
 明治中期から後期にかけては、庶民向けの娯楽の少なかったこととあいま
って、下町の商家の間に広まり、たとえば、明治42年10月1日付「報知
新聞」には、神田区仲猿楽町の淘宮術大教正・吉川尹哲の門弟は、約一万五
千人と報道されている。

 新川酒問屋界隈の入門者も多く、高木家では、藤七をはじめ、長男・忠吉、
とみ夫婦、次男・雄次郎、三男・宗次郎、分家の範治が、神田区三組町の佐
野よし(号・陽月)のもとに入門していた。中でも忠吉は明治41年4月、
この奥伝を受けている。
 さらに中井酒店の原島彦七、彦七の長男・宗一郎、京橋区本湊町八番地居
住の俳人・渡辺伊兵衛(北新川の酒問屋・伊坂商店)、また藤七が薦樽の商
標画を依頼していた京橋区越前掘町一丁目居住の佐藤長兵衛(号・旭峰)な
どが入門。画家・狩野良信が集会に参加していたことも、藤七あての書簡か
らうかがうことができるのである。
 毎月の淘宮術の集会、いわゆる「お淘宮のお席」は、修養の場とはいいな
がら、庶民の憩の場であり、酒問屋づとめの人びと、新川界隈の俳人、美術
家などが参会し、趣味をはじめとする四方山話に花が咲くサロンともなって
いた。
 四男・寿一は明治末期に傍観した「お淘宮のお席」の模様を、次のように
回顧している。

 毎月、蔵の二階で「お淘宮のお席」がある。明治から大正にかけて、商家
 のあいだに「淘宮術」というのが弘まっていた。心のよなげをする修養の
 法である。 月に一度ぐらい、神田三組町の佐野陽月先生という品のいい
 おばあさんを囲んで、信者の人たちが十数人ばかり集まる。そのお席でめ
 いめいにこの一(ひと)月の間に経験して、自分の心の足りなかったこと
 −自分が反省したことなどの話しをする。先ず、小机の上にあるお線香を
 自分がこれからする話の長さに折って、香炉に立ててから話し出す。
 そして、最後には必ず「ありがたいことでございます」と言うのである。
                          (次話へつづく)

(酒蔵の町・新川ものがたり 大関と木藤七、木藤夫、木文雄、
 沢和哉共編 清文社刊より)