0484  第484話  酒蔵の町・新川ものがたり 「国華倶楽部」
  美術界の社交機関「国華倶楽部」に入会

 藤七は著名な彫刻家、画家との交際も広かった。日本画・狩野派の子孫・
狩野良信(下谷区根岸町居住)とは、絵画を通じての交際があったようであ
る。あとで述べるように、狩野良信とは、淘宮術の師・佐野陽月(よし)宅
(湯島三組町居住)の会合で顔を合せた旨の書簡があり、明治46年6月に
は、長男・忠吉の結婚にさいして媒酌の労をとった原島彦七に、狩野探幽の
軸を礼物として贈っている。

 明治末期には、東京美術学校長・正木直彦らによって組織(明治42年7月)
された美術界の社交機関「国華倶楽部」に長男・忠吉ともども入会していた。
  同44年1月には国華倶楽部の本尊として、高村光雲製作の聖徳太子像
が完成。この開眼法要が東京美術学校で行われたが、藤七もその経費の一部
を負担した。 したがって芸術家との交友も広く、帝室技芸員で木彫作家の
高村光雲(彫刻家・高村光太郎の父)をはじめ、同じく帝室技芸員で彫金作
家の香川勝広、また、明治43年4月朝日新聞社主催の世界一周旅行に同行
した日本画家・御船綱手とも親交があった。

 中でも光雲、勝広の二人は、藤七の主宰する木魚音響会にも入会していた。
 大正6年1月、藤七死去後の「形見分けメモ」の中には、次のように、光雲
の「木彫馬ノ像」、勝広の「墨絵銀屏風」、俳人・下平可都美の画いた「松
ニ鶴」の軸、さらに江戸時代の絵画など、故人の生前収集した貴重な美術品
が記録されている。


 藤七死去当時の美術品一覧

 尚信神農図        一幅
 曾我蕭白墨画山水     双幅
 文晁山水図        一幅
 雅邦筆山水画       三幅対
 応震唐美人図       一幅
 光雲木彫馬ノ像      一
 光雲八幡太郎原型     一
      (中略)次話へつづく

(酒蔵の町・新川ものがたり 大関と木藤七、木藤夫、木文雄、
 沢和哉共編 清文社刊より)